マツダR16Aレーシング型ロードスターのデザインスケッチです。
1965年6月、東洋工業(現マツダ)は、東洋一と誇った広島県三次自動車試験場を開場しました。
「R」はリサーチ研究車、あるいは「RE」を表すのでしょう。「16」が重要です。これが排気量の1.6リッターを表しますので、単室容積400cc × 4=1600。つまり4ローターを意味します。
ヴァンケル型REのライセンス権利所有社NSUと有力権利契約数社は、早期からマルチローター・エンジンの研究と試作を始めました。ご存知のように、通常レシプロ(往復ピストン)の1体シリンダーブロックに対し、 REはサンドイッチ、あるいは重箱構造です。ハウジングを積み重ね、ボルトで組み付けます。
マツダRE研究部は、1961年、NSUから送り付けられたKKM400シングルローターを基本とした開発記号40A-0350を試作しましたが、単室容積は386ccでした。小型商用車に搭載し試走しますが、ローターハウジングの異常磨耗が発生、白煙もうもう、身震い振動から『カチカチ山の狸』なるニックネームがつきました。この原因となるチャターマークと呼ばれる磨耗と、マツダ独自の解決については、次の機会に紹介します。
マツダは、独自設計のエンジンシリーズの開発にかかります。コスモスポーツとなるL402A車に搭載する2ローターで、記号L8A-0353の単室容積は399ccになりました。1963年東京ショーに展示されたのはL8Aでした。ちなみに、生産型L10Aは499ccとなります。
マツダ宇品工場脇の小屋倉庫で発見した記号3804・3ローター。初期試作エンジン、ドライサンプ潤滑方式。1963年、RE研究部は L8A基本構造を用いた3と4ローターエンジンを試作します。記号末尾3804、3805には意味はなく、ランダムに付けたものです。これら試作エンジンは、1ローター室に1本のスパークプラグ(生産型はすべて2本、ル・マン最終エンジンは3本)、そしてドライサンプ潤滑方式を用いました。たしか、コスモ発表時点から、お化粧してFRトランスミッションをつけた4ローターが展示されていました。
さて、私の2代目RX-7 FCとマツダRE開発記録本の取材中(残念ですが、英語版のみです)のことです。私のマツダRE学の先生であった大関博課長(当時)が宇品工場脇倉庫探索を提案して下さいました。
山本健一RE研究部長は、3、4ローターを試験台上で回すだけでは満足しませんでした。4ローターにふさわしい実験車が欲しいと持ちかけた相手が松井雅隆・車両レイアウト、デザイン部長でした。松井部長は、少壮3人のエンジニアに4ローター実験車の設計と製作を命じます。リーダーの絹谷誠は、コンセプトとレイアウトでは、マツダきっての逸材と評されたエンジニアでした。
デザイン部門は、ミドシップエンジン・オープンロードスターとクーペの1/5粘土モデルを製作します。絹谷は、製作のより容易なスポーツレーシング・タイプのロードスターを選びます。REについての規則も不明な時期であり、実戦参加は想定外ですが、車両規制にはできるだけ適合する設計でした。
R16Aコクピットのフル計器盤。構造は鋼管スペースフレームの下半分をボディ外板を兼ねたアルミパネルで補強、アッパーボディはファイバーグラス樹脂製、サスペンションはレーシング型ダブルウイッシュボーンとコイルスプリング/ダンパー、ラック&ピニオン・ステアリング、ブレーキは、住友ダンロップMk 31・4輪ディスク。ホイールはマゲネシウム鋳造を意図したのですが、工数、コストが合わず、鋼板製を装着しました。タイアはダンロップ・バイアスプライ・レーシング5.60-14と当時の標準サイズです。
単室容積400cc ×4ローター・ エンジンは、160 HP/6000 rpm、最高回転7000rpmを目標としましたが、松井部長の記憶では、三次コース・オープニングではとてもそこまで回せなかったそうです。カーヴィック・カプリング組み立てエクセントリックシャフト(レシプロのクランクシャフトに相当)のたわみがフル性能達成を妨げました。松井部長の話では、「想定最高回転どころか、なんとか走った程度」でした。
次のマツダ4ローター実験型2002が回るのは6年後になります。
(山口京一)