17歳で吉本興業に加入し、その後、吉本新喜劇の看板女優として活躍し続けている島田珠代。ゼネラルマネージャー(GM)の間寛平から吉本新喜劇の65周年を盛り上げる“顔”にも任命され、現在開催中の全国ツアーに全力を注いでいる。
今年3月1日に65周年を迎え、7月7日より65周年記念ツアーを開催中の吉本新喜劇。その顔に任命された島田は「座員で一番顔の横幅が大きいということで選ばれたという風にも聞いていますが、選んでもらってすごくうれしかったです」と喜びつつ、「いつも『私なんて』というマインドがあり、舞台で『私を見てよ!』という感じでやってきたので、顔でいいのか自信がないです」と吐露する。
吉本新喜劇の看板女優として長年活躍しているも、常に若手の気持ちで舞台に立っているという。
「いつも『まだまだ』という気持ちで挑んでいて、常にハッパをかけている状態に。若手だと思うことでどんどん向上心が湧きますし、ずっと初心を忘れないように心がけています」
そして、本来は「すごく寂しがり屋」だと言い、だからこそ、「私がいることを知ってほしいという思いがあり、ステージでは『私を見て!』という感じで爆発してしまう。そういう芸風になったのだと思います」と自身の芸風について分析する。
ひょうきんな性格は子供時代から変わらず。ただ、幼稚園時代は外ではほとんどしゃべらない子で、外でも明るいキャラクターに変わったのは小学生の途中からだったという。
「4歳から書道を習っていたのですが、小学2年生の頃から書道の授業が始まって、先生が私の書いた字をみんなに見せて『島田のこの字は手本や! こんなすごい字を書く子はおらんぞ!』と褒めてくれて、そこからクラスの人気者に。家でやっていたギャグを外でもするようになって、『こんなに活発な子だったの!?』みたいな感じで3年生以降はクラスの中心でした」
大阪出身ということもあり、「面白い人が一番偉くて強い」という考えが根付いているそうで、「新しい学年になってクラスが変わると、いつギャグをやろうか考えて。
○「舞台に立っているときが一番私らしい、生きていると思える瞬間」
とはいえ、笑いを職業にするとは考えてなかったという島田。転機となったのが、『4時ですよ~だ』の一般人参加コーナーに友達が応募したこと。同コーナーで2回優勝し、吉本の社員から心斎橋筋2丁目劇場のレギュラー出演権を獲得できるオーディションを受けないかと声をかけてもらい、見事レギュラーに。そこから遊びでやっていた笑いが仕事に変わっていった。
2丁目劇場は当時、お笑いブームで東野幸治や今田耕司が大人気。観客は女子高生ばかりで、男性芸人たちに交じって笑いを取るために「女を捨てなあかん!」と覚悟を決めたという。
「女子高生ばかりで東野さんや今田さんにキャーキャー黄色い声が飛んでいて、そこに女の子が加わると、『あの子、東野さんや今田さんと関わりたいからお笑い目指したのかな』と言う人もいて、これはもう男にならなあかんわと。女の子はこんなことできないみたいなハチャメチャな動きをしていたら、女の子からバレンタインデーに何個もチョコレートをもらうようになりました」
その後、新喜劇に入団し、2丁目劇場からなんばグランド花月(NGK)が拠点になると、観客が子供から年配まで幅広い層に。すると、2丁目劇場で爆笑を取っていたネタを披露しても、ぽかんとされて笑いが起きず。先輩の浅香あき恵から「新喜劇はお笑いだけどお芝居なの。3枚目の子はかわいくすればするほどツッコミの人がツッコんでくれてウケるよ」とアドバイスをもらい、かわいく振る舞うようにすると、「気持ち悪い!」とツッコまれてウケるようになっていったという。
そこから自分らしさも出していき、かわいく振る舞いつつ、ハチャメチャな動きで笑いを取る今の芸風を確立。「パンティーテックス」など大人気のギャグも生まれた。
芸歴36年。お笑いや新喜劇から離れたいと思ったことは「ない」ときっぱり。「子供と離れて暮らしていた時期もあったんですけど、新喜劇で暴れている時だけはつらいことを忘れられて、本当にこの仕事でよかったなと。舞台に立っているときが一番私らしい、生きていると思える瞬間です」と語る。
そして、自分もつらい時期を経験したことで、「私みたいに心が落ちている人も見に来ているかもしれないと思い、私の仕事は落ちた人を上げる仕事だから、とにかく一生懸命ステージで頑張ろうと改めて思いました」と元気を届けたいという思いがさらに強くなったという。
「新喜劇という船が渋まないように」 65周年ツアーも全力投球
今後の抱負を尋ねると、「新喜劇という大きな船が沈まないように頑張っていきたい」と意気込む。
「新喜劇は本当に心地よくて、みんないい人ばかりなんです。私たちの前の先輩も、次に船に乗り込んでくる人たちのために、沈まないように頑張ってくれて続いているので、私もこの船を75周年、85周年、95周年とつないでいけるように頑張ります」
7月7日の東京公演で幕を開けた65周年記念ツアーは、来年3月30日の北海道公演まで全65公演以上が予定されているが、島田は初日から全力投球でステージに立った。
「自分のコーナーで2リットルくらい汗をかきました(笑)。お客さんからたくさん拍手があって、大きな声で笑ってくれて、『楽しみにしていたよ』『新喜劇愛してるよ』というオーラがすごく伝わってきたので、こっちがボロボロになってもいいから笑いを届けたいという思いで、関節が外れるくらい変な動きをしました」
65周年記念ツアーを通して、新喜劇が浸透していない地域にも魅力を届けていきたいと考えている。
「東北など新喜劇にあまり馴染みのない地域にも行くので、新喜劇よくわからんわと思っている人たちにも入り込んでもらえるようにアピールしていけたら。もちろん西の人たちにも今まで以上に楽しいものをお届けして、つらいことや悩み事がある人たちも嫌なことを忘れて帰ってもらえたらいいなと思います」
個人としての野望も聞いてみると、「東京のお仕事もいっぱいやってみたい」と意欲。「夢ですけど、スズナリ劇場(ザ・スズナリ)や本多劇場で、新喜劇ではない笑わすお芝居をやってみたいなという憧れがあります。あと、『A-Studio+』に出たいです。(笑福亭)鶴瓶師匠と娘がしゃべっている写真を見て、『これ娘の後ろ姿!』って言いたいです(笑)。そして鶴瓶師匠に私ってどんな人か語ってほしい! 夢ですね」と笑顔で語る。
最後にファンへのメッセージを求めると、「私はライブを見に来てくれたお客さんを幸せにするために生きているようなものなので、皆さんをいっぱい笑わせて、悩み事も忘れさせて、笑顔にさせて、そういう魔法がかけられたらいいなと思っています。見に来てくださった方が、こんな子もいるんだから今の私の悩み事なんてちっぽけだわと思ってもらえることが私の活躍なので、そう思ってもらえるように、関節が外れるほど常に頑張りたいと思います」と熱い思いを語ってくれた。
■島田珠代
1970年5月10日生まれ、大阪府出身。高校在学中に『4時ですよ~だ』の一般人参加コーナーに出演したことをきっかけに1988年に吉本興業に入り活動を開始。吉本新喜劇の代表的女優として活躍。“パンティーテックス”などの持ちネタで知られる。