戦う中で相手を見極め、攻略していった井上。(C)Lemino/SECOND CAREER

 なぎ倒した――。

この表現も決して誇張ではない。それほど井上尚弥(大橋)は、急きょ決まった対戦相手を前に強かった。

 1月24日、プロボクシング世界スーパーバンタム級4団体統一王者の井上尚弥(大橋)は、東京・有明アリーナで行われたWBO世界同級11位のキム・イェジュン(韓国)戦で、4回2分25秒KO勝ち。プロキャリアの通算成績を29戦無敗とした。

【動画】井上尚弥、電光石火のKO劇! 韓国のキム・イェジュンを沈めた戦慄の右ストレート

 結果・内容ともに井上の圧勝と呼べる展開だった。しかし、試合後に「試合で疲れたというよりも2か月いろいろあったし、中止、相手変更とか肉体ではなく、精神的に正直きつかった」と漏らした本人を含めた陣営には疲労の色が濃く見えた。

 それもそのはずで、今回の興行はまさしく異例事態の中での開催だった。当初、昨年12月24日に対戦する予定だったWBO・IBF1位のサム・グッドマン(オーストラリア)が、練習中に左目上をカット。これで1か月延期となり、さらに今月11日に、再び挑戦者が左目を裂傷。手術を必要とする大怪我となったために試合はキャンセルに。元々リザーバーで準備していたキム・イェジュンが代役となった。

 事態の複雑さは交渉役である大橋秀行会長の「本当に大変でした」との言葉からも滲み出る。

百戦錬磨の御大ですら「携帯電話が鳴ると恐怖症になった」という今回のケースは未知の経験だった。再々延期の可能性も睨み、2月6日に有明アリーナを仮押さえしていたという事実からも王者側が、興行実現に相当に神経をすり減らしていたことは想像に難くない。

 無論、スクランブル続きの状況でキム・イェジュンに対する分析が満足にできたわけではない。実際、試合3日前の会見で井上は「2度の中止(延期、対戦相手変更)があった。試合が1か月ずれたということで、もちろん練習スケジュールもすべて狂いました」と言及。グッドマン戦に向けたプランが崩れ、“ぶっつけ本番”という面は否めなかった。

 それでも「いつもより被弾するパンチが多かったと思うんですけど、これは急きょ対戦相手が変わって対策不足ということもあり、リングの上で確認しようかなという思いからでした」という井上は3、4発のパンチを浴びるリスクを取りながら初回で相手の力量を見定めた。

 そして、2ラウンド目からはジャブと上下に強いパンチを打ち分けて試合を支配。ここで「研究した時よりも、もっと速くて強かった」と言うキム・イェジュンの心は折れていたように思う。最終的に4ラウンド目で繰り出した強烈なワンツーでKO勝ちを収めるのだが、趨勢は心身ともに相手を上回った時点でモンスターの方に傾いていたと言えよう。

「有構無構」という言葉がある。これは日本の偉人である宮本武蔵がしたためた兵法書「五輪書」の中に出てくるもので、戦いにおいて基本的な型はあれど、相手の構えや特長、そして性能を瞬時に読み取った中で、臨機応変に戦術や型を変化させて挑むべきという心得の一つである。

 今回の日韓戦における井上は、この大剣豪が世に説いた強者の在り方を見せつけたように思う。

 無論、キム・イェジュン側も試合決定から準備期間はほとんどなかったとはいえ、リザーバーとして井上と戦う可能性を彼らは知っていた。その分、幾分の精神的な余裕はあったはずである。一方で井上は1か月の延期からの対戦相手の急な変更と、「楽勝ムード」を漂った世間が思うほど楽なシチュエーションではなかった。

 加えて井上は昨年11月にサウジアラビア政府が掲げる国家プロジェクトである『Riyadh Season』と推定30億円とされる巨額契約を締結。いよいよ本格的に世界進出を睨む中で、負けられない重圧は増していた。

 それでも完勝、いや圧勝した。その結果は「もちろん1ラウンド目から全力でと考えているが、攻撃全面でいくのか、ボクシングIQを立てて全力で行くのかで変わってくる。自分は(見極める)作業をしていきたい」と語っていた井上の駆け引きが、戦前に「(井上が)普通のボクサーのように見えた」と語った挑戦者を飲み込んだからだと言えるのではないだろうか。

 次戦は、春に約3年11か月ぶりとなる「ラスベガス決戦」に臨む路線が確実とされている。相手は、32戦無敗のWBC世界同級1位アラン・ピカソ(メキシコ)が内定。身長173センチ、リーチ178センチの長身ファイターはボクシングIQも高く、一筋縄ではいかぬ相手ではある。

 それでも井上が敗れるという光景は現時点では想像し難い。最盛期を謳歌する怪物が、24歳の挑戦者をどう受け止め、いかに破るのか。猛者の境地に達した感もある絶対王者の一挙手一投足に興味は尽きない。

[文/構成:羽澄凜太郎=ココカラネクスト編集部]

編集部おすすめ