プロ野球の球団にとって、ドラフトはチーム強化の「イロハのイ」。新人獲得は数億円をかけたビッグプロジェクトでもあります。

中でも1位の指名選手が順調に育つか否かは、チームの将来に大きな影響を及ぼします。

大学生や社会人の「即戦力」に対して、高卒は「当たるとデカい」ギャンブル的な要素を含んでいますが、それだけファンのロマンも膨らみます。今でも野球好き同士が集まると「アイツは惜しかった」「本領発揮となれば、今頃どんな活躍をしていたんだろう」と想像し、語り合う逸材について、あらためておさらいをしたいと思います。

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2004年広島1巡目・佐藤剛士投手(秋田商業)

この年は東北地方に逸材がそろっていました。東北高校・ダルビッシュ有投手、一関高校・木村正太投手と並んで「みちのくBIG3」の一角と呼ばれたのが、この佐藤投手です。

 その魅力は150キロにも届きそうなストレート。

公立校のエースとして、3年次には春夏の甲子園にも出場するなど全国の舞台へ進む原動力となり、文句なしのドラフト1巡目として広島カープへと入団しました。

2年目の06年4月には1軍の先発に抜擢され、横浜戦でプロ初登板初先発を果たしますが、結果は3回途中9失点。その後は肩や腰に故障も相次ぎ、1軍のマウンドに再び舞い戻ることはかなわず、2010年限りで戦力外通告を受けました。

1軍では登板1試合、通算防御率は「34・71」。けがさえなければ…プロの厳しさがこの数字からうかがえます。

そんな佐藤投手の名が再び、野球ファンの胸に刻まれる機会が一昨年ありました。

ダルビッシュ有投手が自身のツイッターに2004年選抜大会の動画を添えて、こう投稿したのです。

「自分の同級生の秋田商・佐藤剛士のピッチング見てたら佐藤が凄いのはもちろんなんやけどキャッチャーのフレーミングがなかなか凄い。15年前だと思えないレベル」

捕手の捕球技術に言及するのがダルビッシュ投手らしいところですが、「佐藤が順調に育っていたら、今頃は…」とカープファン、甲子園マニアが思いを致すきっかけにもなりました。

2006年巨人高校生ドラフト1巡目・辻内崇伸投手(大阪桐蔭高校)

野球に「たら・れば」は厳禁なのは分かっていても、巨人ファンは気づいたらこんな会話をしてしまうことでしょう。

「辻内が3年夏の甲子園でのパフォーマンスを、プロでも発揮していたら…。あの剛速球、東京ドームで見たかったなあ」

聖地を沸かせた左の剛腕。

3年夏の甲子園大会、1回戦の春日部共栄戦では156キロをマーク。2回戦の藤代戦では当時の大会タイとなる19三振を奪い、4強入りに貢献。あまり語り継がれませんが、実は当時駒大苫小牧の2年生だった田中将大投手からホームランも放っています。

高校生ドラフトではドラフト1巡目でオリックスと2球団競合の末、巨人に入団。「暗黒期」とも称された当時の巨人にとって、その存在はまさに希望の光でした。

しかし、1年目から肩痛を発症。

現役生活は主にけがとの闘いを強いられ、1軍公式戦へと登板は果たせませんでした。それでも、抜群の人間性でどんな時も前向きに練習へと取り組んだ姿は、今でも関係者の間で語りぐさになっています。

2011年東京ヤクルト1位・川上竜平投手(光星学院高校)

みちのくを東日本大震災が襲った2011年。その夏の甲子園大会では、青森の光星学院の快進撃に人々は拍手を送りました。その中心にいたのが強打者・川上選手です。

高校時代は主に外野手としてプレーし、夏の甲子園では3本塁打をマーク。

東京ヤクルトは1位で東海大甲府の高橋周平内野手を指名しますが、中日、オリックスと3球団による競合の結果、抽選を外して川上選手を指名します。それでも「将来のクリーンアップは任せた」「池山2世になれる」と高校球界屈指の強打者に燕党の期待は膨らんだものでした。

しかし、1年目は左手甲を痛めて出遅れると、ファームでも豪快な打棒は鳴りを潜め、不完全燃焼の日々が続きました。2016年秋、戦力外通告。1軍の公式戦出場はなりませんでした。

3人に共通して言えるのは、けがの恐ろしさでしょう。

プロ野球選手は「無事之名馬」。相手と戦う前に、まずは肉体を万全の整えなければ、活躍の舞台は遠いということです。

 今季からプロの世界に身を投じたルーキーズも、まずは心身のコンディションをしっかり整えた上で、激しい生存競争へと臨んでほしいものです。

[文/構成:ココカラネクスト編集部]