松田聖子が、外資系最大手のレコード会社「ユニバーサルミュージック」への移籍することが内定したという情報を入手した。移籍理由は「全米進出」というから驚きだ。
聖子は、九州の久留米から上京。1980年にサンミュージックから芸能界デビューし、デビュー曲の「裸足の季節」であっという間にトップアイドルの座に上り詰めた。その勢いをかって、85年頃には全米進出を決意。頻繁に渡米するようになり、90年に全米デビューを果たすことになる。
この間、聖子は神田正輝と結婚。長女をもうけるが、全米進出を口実にニューヨークに滞在し当地でマッチこと近藤真彦と密会。写真誌に現場を押さえられて"生み捨て親"の異名を与えられるが、この際は所属事務所の徹底したガードで大スキャンダルに発展することはなかった。にもかかわらず、聖子は数カ月後にサンミュージックの幹部を、早朝、自宅に呼びつけて、一方的に独立宣言した。89年のことだ。
「しかし、ニューヨークに行ったものの、今度は外人男性に狂ってしまいました。ジェフ・ニコルスやアラン・リードと噂になって、新スタッフも愛想を尽かした。足元が揺らぎ、進出は失敗に終わったんです」(元側近)
96年に、デビュー以来所属してきたソニーレコードからユニバーサルミュージックに移籍。「あなたに逢いたくて」が大ヒットして、再度、全米進出にチャレンジしたが、当時付いていたマネジャーがユニバーサルの上層部と衝突し、進出どころか専属契約の継続も怪しくなった。
「そのときに"芸能界のドン"と呼ばれているバーニングプロダクションの周防郁雄社長が仲介に乗り出し、事なきを得るんです。その代わりに営業権をバーニング系のイベント会社プロペラに預け、同時に、裏でプロモーションを引き受けるんです」(レコード関係者)
この間、神田と離婚、歯科医師と結婚、離婚と慌ただしかった聖子は、02年に古巣のソニーに出戻り、3度目の全米進出に挑んだが、またしても失敗した。
「その頃は、ミュージシャンの原田真二に夢中でしたからね。本人の意識が全米進出に向いていなかった。CDを全米で発売しましたが、一部で話題になっただけ。それどころか、日本でのヒット曲も出なくなりました」(音楽関係者)
その後聖子は、自分の才能を過信したのか自ら作詞・作曲を担当。CDを次々に発売するが、サッパリ売れない。
サンミュージックの相沢秀禎会長は「大物アーティストの楽曲で、聖子を売り出そうと考えているんです」と筆者に答えたが、聖子本人がその気にならず、いまだ実現していない。
この夏には、ソニーとの契約も切れた聖子のユニバーサル移籍情報が飛び始めた。ヒット曲が出ないことを心配した関係者が「最近よく行われている、他の日本人のヒット曲をカバーして歌ったら?」と勧めたが、プライドが許さなかったのか、聖子の答えはノーだったという。
「ところが、ユニバーサルの関係者が"外国人の曲をカバーして歌ったら"と提案すると、心が動いたんです。というのも、聖子が知っているアメリカの音楽プロデューサーと日本のユニバーサルのトップがツーカーだということを知ったからですよ。バックアップ体制が整えば、カバーでの全米再進出もありえそうです」(元側近)
46歳になった松田聖子、今度こそ、男断ちしてチャレンジしてほしいものだ。
(本多圭)
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