今年4月に発売された第3部を含め、累計発行部数360万部を越える村上春樹の大ベストセラー小説『1Q84』。閉鎖的なコミューンで育った美少女・ふかえりを巡るミステリアスなストーリーの中に、カルト宗教、児童虐待、家族の絆といったさまざまな現代的テーマが散りばめてある。

その『1Q84』のリアルドキュメント版と称したくなる映画『アヒルの子』が現在、都内のポレポレ東中野で上映中だ。本作は1984年生まれの小野さやか監督が日本映画学校の卒業制作として05年に製作したセルフドキュメンタリー。小野さやか監督は5歳のときに「ヤマギシ会」に1年間預けられたことから、「家族に棄てられた」というトラウマが生じ、そのトラウマを克服しようともがく姿をカメラが追ったものだ。映画の中で重要なキーワードになっている「ヤマギシ会」とは、農業・牧畜を基盤とした現在も「幸福会ヤマギシ会」として活動中のコミューン団体。理想社会をめざすユートピアとして、学生運動経験者が多数参加し、80年代には世界最大級の農業コミューンに成長を遂げている。『1Q84』に登場する"タカシマ塾"及び、そこから派生した"さきがけ"のモデルとされている。

 小野さやか監督は、1985年に発足した「ヤマギシ学園」幼年部の5期生にあたる。ヤマギシ学園幼年部は5歳の子どもたちが親元を離れ、学園の"お母さん係"と共に1年間の集団生活を送る。学園は自然の中で子どもたちを伸び伸びと育てる理想教育を謳い、後に初等部、中等部、高等部も発足。97年に刊行された『洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇』(本和広著、洋泉社)は、ヤマギシ学園に預けられた子どもたちの多くが労働の過酷さや体罰の厳しさなどから逃亡を企てていたことを明らかにしている。幼年部に預けられた小野監督は"家族に棄てられた"という思いから、ヤマギシで過ごした1年間の記憶が欠落。家族の元に戻ってからは両親の前で懸命に"良い子"を演じ続け、そのことから自分を見失い、"生きづらさ"を感じるようになったという。

 映画では小野さやか監督が小学4年のときに長兄から性的虐待を受けたことを告白し、長兄に謝罪を要求するシーン、家族の中で唯一の理解者であった次兄に恋心を訴えるシーン、両親が寝ている寝室に早朝4時に押し入って大ゲンカを始めるシーンなどがカメラに収められている。良い子の仮面を脱ぎ捨てた小野監督が家族ひとりひとりに対し、落とし前をつけに行くという非常にスリリングな内容だ。映画の後半ではヤマギシ学園で共に過ごした全国の5期生たちを訪ね歩き、さらに現在も活動を続けるヤマギシのコミューンを再訪。小野監督が過ごしたヤマギシ学園の当時の映像も挿入されている。ドキュメンタリー史上に残る過激な作品『ゆきゆきて、神軍』(87)、『全身小説家』(94)で知られる原一男監督が製作総指揮を手掛けていることも話題だ。

 映画の完成から劇場公開まで5年を要しているが、これは小野さやか監督の家族全員が一般公開を承諾するのに時間がかかったため。製作当時、日本映画学校の学校長だった佐藤忠男氏が「この映画は傑作。ただし、一般上映すべきでない。ご家族に迷惑が及ぶ」と釘を刺したという経緯もあった。だが、小野監督が家族ひとりひとりに上映の許可をもらい、小野監督の故郷である四国以外での上映が決まった。

 5月22日、ポレポレ東中野での初日、原一男氏とのトークショーを終えた小野さやか監督にコメントを求めた。映画を完成させ、公開したことで、自分の中で何か変わったか? という問いに対し、小野監督は柔和な表情でこう答えた。

「映画を撮ることで、自分の仮面を外し、生きやすくなるんじゃないかという気持ちで撮った作品です。でも、作品を撮り終えたことで自分が変わったかというと、そんなに大きな違いはないですね。映画を完成させて5年を経て、ゆっくりと消化しているところだと思います。人生そんなにすぐには変わらないんだということが分かった(笑)。でも、それまでの私は映画学校でも友達が全然いなかったんですが、映画製作を通して、多少なりとも人とコミュニケーションできるようになった。今日も初めて会った方たちと話ができたわけですしね。それまでは人と話もできずに、ずっと内へ内へと向かっていたのが、この作品を撮ることがきっかけで意識が外へ向かい出したんです。また、完成した作品を人に観てもらえ、共感してくれる人がいることが嬉しいです」

 もし、この映画を撮っていなかったら?

「死んでたんじゃないですか。死ぬか撮るか、という覚悟で始めた作品ですから。もし、映画を撮ってなかったら、犯罪に走るか、どこかの海に沈んでいたんじゃないかと思います。でも、力の限り投げつけたものを受け止めてくれる人たちがいた。あのとき、自分には映画があって良かったと思いますね」

 ヤマギシ学園にいた5歳時の記憶はまるでない?

「一時期、自分からヤマギシにいた記憶を忘れようとしたんです。

ほとんど覚えてないんですが、ヤマギシでよく絵本を読んでいたことは覚えていますね。『雪女』を読んで、すごく怖かった。雪女のイメージが、ヤマギシの幼年部にいた"お母さん係"と重なっていたんです。自分が怖い気持ちでいるのは、自分が『雪女』の絵本の世界にいるからなんだ。自分がいる世界は、現実ではなく絵本の世界なんだと思い込むようにしていたんです」

 村上春樹の『1Q84』は読みました?

「読みました。それまで村上作品は『アンダーグラウンド』か初期の作品ぐらいしか読んでなかったんですが、『1Q84』は書評を見て、ピンとくるものを感じました。実際に『1Q84』を読んで、ヤマギシがモデルになってるなと思いました。ヤマギシズムを思わせる記述もありますし、逆にちょっとこれは違うなと思う部分もありますね。以前はヤマギシに関連するような本は見ただけで拒絶反応が起きていたので、本を読んで客観的に考えることができるようになっただけでも自分には大きな変化なんです」

 映画の中では終始、噛み付くような視線を発していた小野さやか監督だが、映画完成後も家族ひとりひとりと向き合うことで劇場公開が実現し、別人のように朗らかな顔つきになっていることが印象的だった。まるでアヒルの子が白鳥に成長を遂げつつあるかのように。

 ポレポレ東中野での『アヒルの子』の上映は6月18日(金)まで。6月5日(土)には「幸福会ヤマギシ会」東京事務局長の松本直次氏と小野監督とのトークショーも同劇場で予定されている。


(文=長野辰次)

●『アヒルの子』
監督/小野さやか 製作総指揮/原一男 撮影/山内大堂 録音/伊藤梢 制作・編集/大澤一生 配給/ノンデライコ 5月22日(土)~6月18日(金)ポレポレ東中野ほか全国順次公開 <<a href="http://ahiru-no-ko.com"target="_blank"&gt;http://ahiru-no-ko.com>



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