3月11日2時46分に発生した東日本大震災は、戦後最大の自然災害として日本全土を震撼させた。筆者は今回、地震と津波の発生から三ヶ月後の被災地を取材するため、岩手県陸前高田市から宮城県気仙沼市、南三陸町、牡鹿半島、福島県南相馬市、いわき市などを回った。(現地レポ【1】陸前高田市1、【2】陸前高田市2、【3】南三陸町、【4】いわき市四倉)
被災地では瓦礫の撤去や仮設住宅の設営、ライフラインや幹線道路の復旧などが粛々と行われる一方、被災直後の惨状がそのままの状態で残されているという現場に何度も遭遇した。政府は震災以来、復興ビジョンの策定へ向けて復興対策会議を重ねてきたが、会議の回数に比例して復旧が進んでいるとは言い難いのが実情だ。被災地で見たいくつもの「時計が止まったまま」の現場が、何よりもそれを物語っている。
■破壊された校舎、止まった時計の針(宮城県石巻市雄勝町)
津波の被害で多くの児童が命を落とした雄勝(おがつ)小学校。校舎周辺の被害も凄まじく、教員ら関係者がはじめて校舎の中に入れたのは、津波から1カ月近く経った4月5日。瓦礫と化した教室の壁を避けながら、生徒の名前の入ったノートや絵、学級日誌などが集められた。破壊された校舎は今もほぼそのままの状態で、崩れ落ちた天井、突き破られた壁、なだれこんできた土砂が津波の凄まじさを物語っている。校舎の時計の針は今も津波を受けた時間を指したままだった。