もはや「ミニコミ」なんて言葉は、通用しない世代のほうが多数派になっているんじゃなかろうか。まず、Googleで検索してみたのだが、最上位に表示されたのは「日本語俗語辞書」なるサイトの用語解説(http://zokugo-dict.com/32mi/minikomisi.htm)。

ここでは「ミニコミ誌とは、自主制作雑誌の総称」として解説している。対して、多くのサブカルチャー用語が掲載されているWikipediaには、「ミニコミ」「ミニコミ誌」の項目はない。

 ミニコミ誌は、いわば同人誌の一形態である。いや、同人誌がミニコミ誌の一形態なのかもしれない。その境界線は極めて曖昧だが、同人誌は掲載される記事が特定のジャンルや目的に絞られたもの。対して、ミニコミ誌は雑誌的といえるだろう。いずれにしても、制作する人々が、どう認識しているか次第だ。百花繚乱のコミックマーケットの中でも、同人誌というよりもミニコミと表現したほうがよいサークルは、数少ない。長らく刊行されている「漫画の手帖」あたりが、古きよきミニコミのスタイルを守っている数少ないものだろう(と、再びGoogleで検索してみたら「漫画の手帖」はWikipediaに「漫画に関するミニコミ誌」としてページがあった)。

 かつて、インターネットも携帯電話もなかった時代。若者が、情報発信を行うツールとして使ったのが、ミニコミ誌であった。どこの大学にも、ミニコミ誌の1つや2つは必ずあった。

オフセット印刷の高級なものは少数派で、多くはガリ版や、ちょっと時代が進んでリソグラフで印刷したものを、ホチキスで製本したものであった。

 ちょっと回想。筆者が大学生だった90年代半ばは、振り返ればちょうど時代の端境期だったろう。まだ、ワープロを所有している同級生は少なく、パソコンとなると指で数えられる程度のマニアックなものだった。それでも、多くの人がミニコミ的なものは制作していた。筆者の通っていた大学の場合、ミニコミ誌制作を掲げるサークルは、どういう事情か勢いを失っていたが、文芸系サークルとか、研究系のサークルは、会報とか会誌という形で、ミニコミ的なものを制作していた。その制作風景も、今となっては化石的だと、この文章を書き始めて気づいた。

 当時の制作スタイル。まず、ワープロで原稿を制作するのは、ごく少数派。PCを所有していてもテキストデータなんて言葉は、ほぼ誰も知らない世界。原稿は、緑の方眼が入ったレイアウト用紙に直接書き込むか、ワープロで入力したのをプリントアウトして、切り貼りするものであった。直接、レイアウト用紙に原稿を書くときも、いちいち鉛筆で書いて下書きするのは面倒くさくて、直接ペンで書いていき、間違ったら修正液を塗りたくるのが常套手段だった。

そう、あの頃は、文房具の中で修正液が欠かせない時代だったのだ。原稿が揃ったら、ページに間違いないか確認をして、リソグラフで印刷。だいたい、〆切を設定していても、誰もが守るはずもない。ゆえに、リソグラフで印刷したあたりで、サークルボックス or 学生会館を追い出されて、誰かの家で「紙をトントンする作業」「紙を折る作業」「閉じていく作業」を繰り返し、気がついたら、朝という感じ。だいたい、印刷の前の段階。原稿を揃えているあたりから、合宿である。なにしろ、1人か2人かは、原稿を揃えている段になって、ようやく原稿を書き始める……。研究系のサークルだと、真面目に研究論文を書くヤツがいる一方で、1人か2人かは「……次回に続く」と2ページ目で終わるヤツ、趣味か食い物の話か、合宿の思い出を書いてお茶を濁すヤツが出る。

 そして、今は21世紀。ワイワイガヤガヤした制作風景は、もう聞かない。大学生レベルでも「PDFで入稿してネ!」とか、器用なヤツがInDesignでカッコイイデザインをつくっちゃう時代なのだ。こうしてモノをつくる作業は個人の中へと埋没している。
スタイリッシュなデザインは、手に取る者を満足させても、長く記憶に止めるものは少ない。

 さて、ミニコミはいかにして生まれてきたものなのか? 「平凡パンチ」1979年2月5日号に掲載された「ミニコミ第三世代百花繚乱」は、こう綴る。

「ミニコミが、そもそも若者文化の旗手として世の中に登場してきたのは、あの68~69年の学園闘争以降のことだ。自分たちのパワーで既成社会に変革を迫ったあの闘争もけっきょく、機動隊の圧倒的な力の前に、敗退せざるをえなかった。

 そうしたなかで、闘争挫折派のヤングが、政治的な戦いを文化的なレベルでの闘いにスイッチバックさせる形で、新たに生み出したのが、ガリ版刷りやタイプ印刷のミニコミ雑誌群だったのだ。

 いわゆる大人社会への対抗文化設立を目指す、“怒れる若者たち”からの紙つぶてとして、これらのメディアは、世の中へ放たれた。

 あれからちょうどまる10周年を迎えた今、ミニコミ自体もかなりの変化をとげている。つまり、おフザケとパロディとに満ちたナンパのメディアが激増している」

 ここに示されるように、そもそもミニコミは漠然としたカウンターカルチャーの意識の中で、生まれ出たものだった。しかし、それは、あくまで漠然としたものにすぎなかった。ここに示されるように、わずか10年の間に、ミニコミという媒体を使って体制に、あるいは世の中に牙を剥く意識は、飛び去った。でも、若者の情熱が冷め切ったというわけじゃない。それは、本気の消費文化として蘇ったのである。

 この記事では、前述の闘争に挫折した世代を第一世代として、1979年当時には既に第三世代に移行していると述べている。

 すなわち第二世代とは

「手書き文字をそのまま軽オフセット印刷にかけたという新聞スタイルのフリープレス群である」

 とする。そして、第三世代とは77年ごろから勃興してきた

「いわゆる街の情報誌のスタイルをとったタウン誌と各大学のキャンパス・マガジンの2つの傾向」

 からなるものだとする。

 この記事が掲載された1979年という時代、それは第一世代は消え去ったものの、第二世代はまだ残存。第三世代が、急激に勃興を始めた頃だったのだ。

 この記事では真面目な第二世代も取り上げつつも、メインになるのは第三世代。記事中では、1979年当時には全国でミニコミ誌は5,000種も出ていると述べているが、その中で最も勢いがあるのは、マジメさも堅さもない。それまでの学生のメディアとは打って変わった第三世代のミニコミであったのだ。

 そして、記事は次々と第三世代を象徴すべき妙なミニコミを紹介している。中でもイチオシで紹介されるのは同志社女子大の女学生による「奇女連」なるサークルが発行する「ナ・リマ・セヌ」なるミニコミだ(タイトルは、尼さんが濡れ場で「なりませぬ、なりませぬ」と声に出すところからと、ある)。記事によれば、この奇女連は、次のような女性の集合だという。

「平均年齢二十歳ほど/男の所持数 星の数ほど/信条 犬が西むきゃ尾は東/宝物 子宮/氏神 中山千夏+桐島洋子<泉ピン子/合言葉 普通の女の子はもうやめた」

……サブカル女子は、別に21世紀になって始まった存在ではないことを示す資料ではなかろうか。

 ともあれ、若気の至りともいえる突っ走り方がすがすがしいミニコミには目を見張るものがある。上智大学の仲良し4人組の女のコたちがロンドンでパンクに目覚めて創刊したと紹介される「狂乱娼館」はまさに、それ。なんでも、パンクを本当に正しく伝えるミニコミだそうなのだが、

「だれでも人間なら言いたいことがあるのだから、かまわず発言しようってことが私たちのネライ。そして、パンクを通して日本のジャーナリズムがいかにくさっているか、身をもって挑戦したいンです」

 と、発行メンバーはコメントしている。政治の季節が過ぎ去ってから10年を経ても、まだ何かの雰囲気が残っていたことを感じさせずにはいられない。今でも、ミニコミ誌が継続的に発行されている早稲田大学に触れた部分では、新しい号が出るたびにキャンパスに露店を出して販売していることが記されている。学生が露店を出して勝手に商売をやり始める──もはや、ガードマンがウロウロと巡回している管理された空間となった大学では考えられない光景であろう。
(文=昼間たかし

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