かつて、オカマタレントというジャンルがあった。ゲイという言葉はまだ一般的ではなく、LGBTという言葉を誰も知らなかった時代のジャンルだ。
そんなオカマタレントとして一世を風靡したのが、おすぎとピーコだ。共にオカマである。
キー局での出演は減ったが、トークの切れ味はいまだ健在、というか、ますます磨きがかかっている。口から出る、あらゆるフレーズが面白い。そして重要なのは、おすぎとピーコがいまだに2人で出演している点だ。共に我が強そうな2人だが、今もちょくちょくご飯を食べに行くらしい。なぜ、おすぎとピーコは、ずっと2人でいられるのだろうか? 『サワコの朝』で語ったエピソードから、その秘訣を抜き出してみたい。夫婦円満のヒントになること、請け合いである。
<1>意味のないプライドは持たないこと
現在でも、2人でよく食事に行くという話になったとき。おすぎが「頻繁にご飯食べてるよね」と言った瞬間、ピーコが「ごちそうさまですー」と口を挟む。聞くと、食事の代金は、常におすぎが支払っているのだそうだ。「(ピーコの)稼ぎが少ないから」と、さらっと言い放つおすぎ。それに対して、ピーコが何か言い返すこともない。気兼ねしている様子も見受けられない。
夫婦はしばしば、お互いに無駄なプライドを持って、それに固執しがちだ。自分はこれだけ稼いでいるとか、自分はこれだけ家の中で頑張っているとか。だが、そんなことは、実はどうだっていいことだったりする。おすぎとピーコがそうであるように、夫婦もまた、自分たちにふさわしい在り方がある。やれるほうがやればいい、というただそれだけの話であり、その形を見つけることが大事なのだ。
<2>お互いに違う世界を持つこと
おすぎとピーコの中では、どちらかが友達になった人とは友達にならない、というのが共通のルールになっているそうだ。「違う世界を持つことが大切」と2人は口をそろえる。阿川佐和子も、かつてそれを“乗り換えた”ことがあるらしい。2人の中では、人によっておすぎ印、ピーコ印という分類があり、相手の仲の良い人間とは一定の距離を置くというのがルールになっている。
夫婦にとっても、これは大切なことだろう。
<3>2人だけの、忘れられない思い出を作ること
おすぎとピーコは、かつてオカマタレントとして活動していた日々を振り返る。当時は、彼らのような存在は一般的な認知も低く、普段から差別を受けることも少なくなかったが、最も反発したのは同類の人々だった。新宿二丁目を歩いていたら「そんな汚いのが、みんなの前で男が好きなんて言わないでよ!」と罵倒されたという。彼らは社会からも異物として扱われたが、新宿二丁目からも拒絶されていたのだ。
だが、おすぎは笑って言う。「(オカマという蔑称は)差別だって、みんなで言ってた時代のほうが断然面白かったよね」と。ピーコも笑いながらうなずいている。それは過去への郷愁ではなく、ただの感想だろう。少なくともおすぎとピーコの2人にとっては、そして面白いか面白くないかという観点だけで捉えれば、今よりもあの頃のほうが面白かった。もちろん異論もあるだろう。誰もが、おすぎとピーコのようなメンタルを持っているわけではない。LGBTへの意識の向上で社会が得たもの、あるいはこれから得るであろうものは多くある。だが、そういった異論を含めて面白いのだ、おそらくおすぎとピーコにとっては。
おすぎとピーコは当時を振り返りながら、本当に楽しそうに笑っている。2人だから、2人だけが経験できた思い出がたくさんあるのだろう。夫婦もまた、そのようにありたい。世界で、たった2人だけだ。特別な思い出をたくさん作り、いつか笑って語り合える、そんな2人でありたい。
【検証結果】
おすぎとピーコがテレビに出た時代、テレビはそこに“あるもの”を“あるもの”として見せた。決して、“あるもの”を“ないもの”として扱わなかった。オカマというものがあり、珍しいからテレビに出してみよう。そうしておすぎとピーコは世に出たのであり、それは時代の要請だったともいえるだろう。そこには無邪気さと無知が共在していて、もちろん賛否はあるが、少なくともテレビがそういう時代だったというのは事実だ。あるものはある。それは、今のテレビや社会全体からは許されにくい思想だが、そこで見捨てられてしまった面白さは、やはりあるものはある、としか言えない。
(文=相沢直)
●あいざわ・すなお
1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。
Twitterアカウントは @aizawaaa