かつて、オカマタレントというジャンルがあった。ゲイという言葉はまだ一般的ではなく、LGBTという言葉を誰も知らなかった時代のジャンルだ。

それは現在のオネエタレントに系譜としてはつながっているが、しかし決してイコールではない。オカマとは多くの人にとっては蔑称であったし、一般人から理解できない人種としてテレビの中にいた。だが、それは昔の話だ。テレビというか社会全体が、マイノリティに対する差別に対して自覚的になり、それを改善しようとしてきた、あるいは差別感情を隠す技術を覚えた現代では、オカマタレントというジャンルそのものが成立しない。

 そんなオカマタレントとして一世を風靡したのが、おすぎとピーコだ。共にオカマである。
しかも双子だ。なおかつ抜群に面白い。特に『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系)などでのタモリとのやりとりは、手だれの剣士が笑いながら斬り合うような迫力があった。ついには冠番組まで持ち、押しも押されもせぬ人気タレントとなったおすぎとピーコだが、現在東京のキー局に出演する機会はまれだ。おすぎはいまや福岡県に在住しており、2人とも、テレビ出演に関してはほとんど地方ローカル局を主戦場としている。そんな彼らがそろって出演したのが、2月20日に放送された『サワコの朝』(TBS系)だった。


 キー局での出演は減ったが、トークの切れ味はいまだ健在、というか、ますます磨きがかかっている。口から出る、あらゆるフレーズが面白い。そして重要なのは、おすぎとピーコがいまだに2人で出演している点だ。共に我が強そうな2人だが、今もちょくちょくご飯を食べに行くらしい。なぜ、おすぎとピーコは、ずっと2人でいられるのだろうか? 『サワコの朝』で語ったエピソードから、その秘訣を抜き出してみたい。夫婦円満のヒントになること、請け合いである。


<1>意味のないプライドは持たないこと

 現在でも、2人でよく食事に行くという話になったとき。おすぎが「頻繁にご飯食べてるよね」と言った瞬間、ピーコが「ごちそうさまですー」と口を挟む。聞くと、食事の代金は、常におすぎが支払っているのだそうだ。「(ピーコの)稼ぎが少ないから」と、さらっと言い放つおすぎ。それに対して、ピーコが何か言い返すこともない。気兼ねしている様子も見受けられない。
2人の中ではそれが当たり前のことであり、申し訳ないとか恥ずかしいとかという感情は、そこにはないのだ。

 夫婦はしばしば、お互いに無駄なプライドを持って、それに固執しがちだ。自分はこれだけ稼いでいるとか、自分はこれだけ家の中で頑張っているとか。だが、そんなことは、実はどうだっていいことだったりする。おすぎとピーコがそうであるように、夫婦もまた、自分たちにふさわしい在り方がある。やれるほうがやればいい、というただそれだけの話であり、その形を見つけることが大事なのだ。
そしてもちろん、何かをしてもらったときには、ピーコのように感謝の気持ちを相手に述べるようにしたいものだ。

<2>お互いに違う世界を持つこと

 おすぎとピーコの中では、どちらかが友達になった人とは友達にならない、というのが共通のルールになっているそうだ。「違う世界を持つことが大切」と2人は口をそろえる。阿川佐和子も、かつてそれを“乗り換えた”ことがあるらしい。2人の中では、人によっておすぎ印、ピーコ印という分類があり、相手の仲の良い人間とは一定の距離を置くというのがルールになっている。

 夫婦にとっても、これは大切なことだろう。
ずっと家に2人でいて、同じ世界だけを共有していると、いつか息苦しくなってしまう。お互いに相手の入ってこない自分だけの世界を外に作るというのは大事なテクニックだ。また、それを言うと愛情が足りないという風に捉えてしまいがちなため、おすぎとピーコのようにちゃんとルールとして明文化しておくとよいだろう。違う世界で得たものを、夫婦という帰る場所におみやげとして持って帰るのもお忘れなく。

<3>2人だけの、忘れられない思い出を作ること

 おすぎとピーコは、かつてオカマタレントとして活動していた日々を振り返る。当時は、彼らのような存在は一般的な認知も低く、普段から差別を受けることも少なくなかったが、最も反発したのは同類の人々だった。新宿二丁目を歩いていたら「そんな汚いのが、みんなの前で男が好きなんて言わないでよ!」と罵倒されたという。彼らは社会からも異物として扱われたが、新宿二丁目からも拒絶されていたのだ。

 だが、おすぎは笑って言う。「(オカマという蔑称は)差別だって、みんなで言ってた時代のほうが断然面白かったよね」と。ピーコも笑いながらうなずいている。それは過去への郷愁ではなく、ただの感想だろう。少なくともおすぎとピーコの2人にとっては、そして面白いか面白くないかという観点だけで捉えれば、今よりもあの頃のほうが面白かった。もちろん異論もあるだろう。誰もが、おすぎとピーコのようなメンタルを持っているわけではない。LGBTへの意識の向上で社会が得たもの、あるいはこれから得るであろうものは多くある。だが、そういった異論を含めて面白いのだ、おそらくおすぎとピーコにとっては。

 おすぎとピーコは当時を振り返りながら、本当に楽しそうに笑っている。2人だから、2人だけが経験できた思い出がたくさんあるのだろう。夫婦もまた、そのようにありたい。世界で、たった2人だけだ。特別な思い出をたくさん作り、いつか笑って語り合える、そんな2人でありたい。

【検証結果】
 おすぎとピーコがテレビに出た時代、テレビはそこに“あるもの”を“あるもの”として見せた。決して、“あるもの”を“ないもの”として扱わなかった。オカマというものがあり、珍しいからテレビに出してみよう。そうしておすぎとピーコは世に出たのであり、それは時代の要請だったともいえるだろう。そこには無邪気さと無知が共在していて、もちろん賛否はあるが、少なくともテレビがそういう時代だったというのは事実だ。あるものはある。それは、今のテレビや社会全体からは許されにくい思想だが、そこで見捨てられてしまった面白さは、やはりあるものはある、としか言えない。
(文=相沢直)

●あいざわ・すなお
1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。
Twitterアカウントは @aizawaaa