小谷真倫。福島県生まれ。

性別は女。職業はマンガ家。

 商業誌をフィールドに、選ばれた者しか到達することのできないプロのマンガ家の階段。その一段目を踏んだのは2007年。講談社の新人賞「第23回講談社MANGA OPEN」にて奨励賞を受賞してからである。

 そこから、アシスタント経験などを経て初の連載作は09年に「イブニング」(講談社)15号から不定期連載された『害虫女子コスモポリタン』。
これは、ゴキブリや蚊、セミなど身近な昆虫を美女に擬人化したショートショートのギャグマンガ。タイトルは、途中から『害虫女子コスモポリタン ビッチーズ』と変わり、それぞれのタイトルで1冊ずつ単行本になった。後者の単行本の発行日は、13年9月20日。それから4年あまり。小谷の最新刊『私だってするんです』(新潮社)は、前作にはなかった「共感」を呼んでいる。

 作品が連載されているのは、Web上のマンガサイト『くらげバンチ』。
そこは、Web媒体の優位性を生かして、次々と実験作が投入される場。いわば、多くのマンガ家が「プロになる」第一歩、あるいは復活の一歩を踏み出す戦場である。Webの時代となり、受け手の反応は直接的に手に取ることができる。TwitterやFacebookといったSNSを中心に溢れかえる、文字通りの忌憚のない意見。おおよそ、現代的な作り手は、それに一喜一憂しながら、さらに高みを目指している。目指しているとはいえ、時にそれらの意見にへこむこともある。


 さらに『くらげバンチ』には、その一歩先がある。それが、作品のページごとにあるコメント欄。Facebookなら大抵は実名だから、あまりにも辛辣なことを書こうとすれば抑制が働くものだ。本名であることが少ないTwitterでも同様。普段、平和に会話を交わしている相手。中には、現実世界でつながりがある人がいる場合も多々ある。
だから、やっぱり抑制が働くもの。ところが、サイトのコメント欄となるとワケが違う。なぜなら、完全に匿名性。表示されるのは、作者と作品に対する称賛であったり、罵倒であったり。書き逃げができる場だから、SNSに比べて辛辣な意見も投げつけられやすい。

 その中にあって『私だってするんです』に寄せられるのは、読者からの「共感」。
単行本のオビに記された宣伝文句を使えば「男性も必読!!!!!! 女性読者から共感の嵐」という具合。

 そんな共感を呼ぶ作品。描かれるテーマは「女性のオナニー」。女性のオナニーのやり方や、使っている「オカズ」が、各回ごとにテーマとして設定されている。

 それは、こんな物語だ。

 女子高生・慰舞林檎は、放課後の教室でオナニーを楽しんでいたところを、男子に見つかってしまう。
それも、オカズに使っていた学年イチの優等生である江田創世(エデン)本人に。

 茫然自失とするしかない林檎であったが、江田は予想外のことを言い出す。「僕の事が好きなの?」と尋ね「いいよ! 付き合っても」と。ただ、交際には条件があった。江田は、さまざまな人が使っている「オカズ」を調べた「オカズ大辞典」を制作していた。それを参考に新たな快感を開拓することが、江田のライフワークだったのである。でも、優等生の彼をしても、困難なことがあった。それは、女子がどのような「オカズ」を用いて、どんなオナニーをしているのかということ。

「俺と一緒に『オカズ大辞典』を完成させてくれないか」

「……これが完成したら僕の事オカズどころか主食にしていい……」

 文武両道かつイケメンの優等生かと思いきや、振り切った変態。でも、そのギャップも萌え要素。こうして、女子のオカズを調べることを決意する林檎だったが、そのハードルは高かった。女子は、セックスのことは話すことができても、自分のオナニーになると途端に口を閉ざすのである。

 もしかして女子にとってのセックスとオナニーって……
 同じ性的なことでも……
 マツジュンと出川○朗に迫られるくらい……
 格差がある……

 そんなギャップの存在を描きながらも、林檎は、物語の狂言回しとして、電マやセクスティング、あるいは、ボーイズラブマンガなど、未知の方法やオカズを切り拓いていくのである。

 現代では、女性が性的なテーマを描くこと自体は珍しくなくなった。作中で登場しているボーイズラブ。男性向けの、いわゆる「エロマンガ」でも、女性作者は当たり前の存在だ。そうした「実用重視」の作品群とは、別のベクトルの、女性が描く性というのも存在する。マンガに限らず、文章や映像など、さまざまな形で描かれる作品群。どこかハイコンテクストで、個人的な体験を社会の中で一般化。ともすれば、社会に問題を提起することに熱心な、声の大きな作品群。

『私だってするんです』は、そのどちらのジャンルにも属さない。作品中に描かれるオナニーのやり方で興奮させたり、登場人物の用いているオカズを通じて「多様な性を認めろ」とかいって、社会に向けて声を上げるわけでもない。狂言回しを通して描かれるのは、オナニーの楽しさと、無限の可能性。いわば、地に足の着いた感じで、女性が密かに行っている性欲の満たし方を綴っている。

 ともすれば「出オチ」にもなり得るテーマ設定。けれども、コメント欄でも読者に指摘されていたが、作品は回を追うごとに面白くなっている。単に女子高生がさまざまな女性のオナニーを探求するだけだったら、誰にでも描ける。ただし、すぐに失速して惰性になってしまうだろう。

 この作品がそうならない理由。それは、狂言回しである林檎が、いかなるオナニーや使っているオカズに対しても、まったく否定的な態度を取らないこと。いかなる行為に対しても「うわ~変態」とか「それは、上級者すぎる」などという、Twitterなどにありそうな、安全圏で上から見下ろす態度は一切ない。それを、理解し我が身の中に吸収しようとする。そればかりか、林檎は快感に到達し得ない自分を嘆くのだ。

 それがもっとも濃厚に描かれているのは、第8話「オカズは『私』」のセクスティング。それは、自分の裸体などを自撮りして彼氏などに送る行為。姉が、その行為で未知なる快感を我が物としていることを聞いた林檎は、自身でも挑戦する。自分の身体を撮影することで繰り広げられるナルシスティックな行為の数々。それは、確かに未知の快感を教えてくれる。「すごいっ意外と自分の体で白飯3杯はイケるよ!」と、自給自足で得られる快感のスゴさが独特の表現で記される。しかし、それをひとまずは彼氏であるエデンに送ろうとした時、林檎は躊躇してしまう。そこに、新たな快感があるのはわかっている。しかし、恥ずかしさをかなぐり捨てることはできない。そこで林檎が味わうのは、敗北感。

「自分の凡庸に負けたんだ……」

 この一言に、作者・小谷のオナニーにまつわる数多の事柄を、ポジティブに捉えて自分自身も獲得しようとする心情が込められているように思える。その探究心や、あらゆるものを否定する態度に「共感」を得られる要素があるのか。そうした探究心はマンガ的に描こうとすれば、いくらでもできる。すなわち、そんな気持ちなどないのに頭の中で組み立てることもできる。

 これまで、そんな「意識の高さ」を匂わせる作品にも多く出会ってきた。けれども『私だってするんです』には、そんな凡庸さはない。狂言回しである林檎を通して、作者自身が探求し右往左往する様が描かれているように思えたからだ。物語の必然として、林檎が調査をしなくてはならない理由はきちんと描かれている。でも、それを踏まえた上で作者である小谷自身の体験した驚き、快感、躊躇が余すことなく表現されている。その嘘のなさこそが「共感」を生んでいるのではなかろうか。

 デビューからこれまでの間に発表した作品が極めて少ない、寡作な描き手。それでいて、描くものは極めて濃厚。小谷真倫とは、いったい、どんな人物なのか。そんな極めて単純な好奇心から、取材を申し込んだ。

 最初に連絡したのは『くらげバンチ』のメールフォーム。驚くほど早く、日時は決まった。場所は神楽坂にある新潮社の別館。飯田橋駅から、喧噪にまみれる神楽坂通りをトボトボと歩いて登りながら、どんな人物が待っているのか、さまざまな想像がめぐった。

 ふと思い出したのは、単行本の中にあった一文である。

 小谷はもともと夜の世界の人間である。

 単行本のために描き下ろされた、おまけマンガにはそう書いてあった。ほかのページも含めて、添えられた作者自身の造形は、たらこ唇のズケズケと図太そうなタイプの女。女性ではなく「女」という一文字がしっくりとくる。インタビューを受けてくれるとはいえ、自意識が高くて押しの強そうな水商売風の女が来たら、どうしようかと思った。見ようによっては、オナニーのことを、ずけずけと恥ずかしげもなく描いているわけだから、きっとそんなタイプの女性なのではないか……。

 でも、新潮社別館の1階にある応接室で待っていたのは、まったくの別人だった。秋の訪れを感じさせる、小豆色と白黒がストライプになった薄手のセーター。細身の、清楚さもかすかに感じさせる大人しげな女性は言った。

「あの、私、インタビューは初めてなんです。ちゃんと話せなかったら、ごめんなさい」

 彼女が身に纏う、作品とは正反対の雰囲気。その色気とも違う、何かを取り込もうとする独特の空気感にして、私は、お決まりの言葉を紡ぐことしかできなかった。

「インタビューは初めて」という言葉通り、最初、小谷の声は小さかった。けれども、作品の中で描かれている、グイグイと押していく雰囲気の自画像とは真逆の姿に、俄然興味が湧いた。『私だってするんです』で描いた自画像よりも、自分を的確に描いているのは『害虫女子コスモポリタン』の中で描いた、自身の初取材の回。そこでドキドキする自身を描写した小谷は、緊張のあまり失禁する姿まで描いている。マンガ的な、話を盛ったコマだとはわかっている。でも、そこにはできる限り目線を下げて、取材対象に寄り添おうという精神性が感じられた。意図的かどうかはわからないが、この時は素の自分を素描していたのだと思う。

 そんな小谷への最初の質問。やはり聞くべきは、宣伝文句にもなっている読者からの共感の嵐について、どう感じているかということだった。

「えっとですね……」

 とても小さな声で、一拍置いて。それから、小谷ははっきりした声で話し始めた。

「共感した方もいらっしゃるんですけれども、もともと、これは、別にこう……わかってもらわなくていいかな、という思いでつくったんです」

 この一言に『私だってするんです』という作品が、共感を呼び起こしている理由が集約されている。インタビュー慣れした人が口にするようなものとは違う、自然体の素朴な言葉。そこには、どこからともなく湧き出る「この作品を描きたい」という作者の情熱に読者が圧倒され、物語の中に引きずり込まれているという構図があった。

 この作品を描いて世に出ようだとか、有名になろうだとかいったものよりも、自分はマンガ家なのだから、描きたいし描いてしまったのである。

 だから、連載を前に、小谷の心中にあったのは「共感できないけれども、理解してもらえればいい」という思いだけ。ところが、コメント欄に寄せられるのは、まったくそうではない感想。

「最初は、中にはこういう人もいるのかなと思って描いたんです。それが、<わかる>という人が何人もいて反対にびっくりしたんです」

 実のところ、男女の垣根を越えて好意的な反応が押し寄せる様は、編集サイドにとっても予想外だった。「女性のオナニー」事情をテーマにした作品。だから、当初考えていたのは男性からの反応。それが、蓋を開けてみれば男女を問わず。女性からの感想も次々と寄せられる。

 Twitterは、アカウントは持っているけれども、エゴサーチもしなければ、ほとんどツイートしていなかった。それなのに、60数人しかいなかったフォロワーは、連載を始めてから120人にまで増えている。これも、独特の反応。前述のように、Twitterでは公言しにくいが、コメント欄には感想を寄せる。オナニーについて、もっと積極的に、オープンに語りたい男女が無数に蠢いていることを感じさせてくれる。

「コメント欄は、誰が書いたかわからないから、Twitterなんかよりも書きやすいとは思うんです。それでも、意外と肯定的な意見が多くて。最初は、みんな『そんなにオナニーしていないだろう』となるんじゃないかと思っていたんです」

 同席していた『くらげバンチ』担当編集の佐藤は、存外に好意的な感想が集まったことへの驚きを隠すことはなかった。

「共感してもらう必要もなかった」

 そんな言葉を、小谷は幾度も口にした。読者の共感を得て、評判になっている実感を得て感激するよりも、もっと作品を描くための探求に限られた時間を割きたいのだ。

 取材というよりも探求という言葉がよく似合う小谷の行動力は、初の連載作『害虫女子コスモポリタン』の時から、如実に現れている。ゴキブリをはじめとした害虫を、女のコに擬人化して描くショートストーリー。そこで綴られる知られざる害虫の生態は、さまざまな専門家との対話をベースにしている。

「今、描いているのは取材と想像と、人から聞いたものを、自分を……なんてこう……実験台にしてみたいな……気持ち悪いことをやってえ」

 オナニーをテーマにするため、自分の身体を実験体にしている。それを小谷は「気持ち悪いこと」と言って笑う。その自虐も、一種の余裕である。そして、自分の知りたいこと、描きたいことのためには世間の評判などは、取るに足らないものと割り切る覚悟である。だから、作品に生かされている実体験を尋ねても、小谷は臆さない。それどころか、話題がそこに及ぶと、よりはっきりとした声で話し始める。

「作中で、林檎が電マを試していますが、これも実体験を通していらっしゃるのですね」

「そうですね、電マは……過去にやったことを彷彿とさせて、という感じですね」

「ひと通り試していらっしゃる」

「ええ、それは日記に全部……。こう、メモ書きにしてあるんですよ。何月何日にこれをやったと。『死ぬかと思った』とかみたいなことを」

「死ぬかと思ったとは」

「えっと、社会的に死ぬかと思ったのが電マなんですよね。なんか、音みたいなのとか……騒いだりとかで、迷惑をかけたのは電マ」

「声は出てしまった」

「そうですね。ちょっと、転落したりだとか」

「とりわけ、セクスティングでの敗北感は、事実を反映しているふうに読めますね」

「これなんか、大学生の時に調子こいてやっていたような気がするので……。それに近いことを正気になって考えたら、気持ち悪いな。よくよく考えたら、そんなに自慢げな身体でもなかったなあ……」

「それは、当時の彼氏なりに送った」

「彼氏というより好きな人に送ったんです。その時だけ盛り上がって……5年くらい賢者タイムでしたね」

 作中で記されているさまざまな行為を、自身が体験している。そのことを聞いても、まったく隠すことはしない。隠すことはしないのだが、自慢することもしない。それもまた、小谷の作品に反映されている独特の精神性である。女性の性を扱った時に、多くの作品は暴露的、露悪的、あるいは社会問題提起であったりする。ところが、小谷はどちらでもない。「こんな作品」を描くことに突っ走ってしまう情熱と「こんな作品」を描いてしまう恥ずかしさの間を揺らいでいる。それは、主観と客観の間の揺らぎのようなもの。その揺らぎが、作中で描かれる性を、今まで描かれてこなかっただけで、実は人知れず普遍的に存在していたものであるという存在感を与えている。

「セクスティングで、もう一歩を踏み出せない林檎の敗北感。それは、一線を越えた先に楽しい世界があるのがわかっているからこそなのでしょう」

「そうです。ですから、この主人公の林檎は非常にまともで、けっこうフツーの人間。真人間。身体はエロいけど……」

 世間の常識と、自分の知りたい世界との揺らぎの中に、作品世界を模索する小谷。高校までを過ごしたのは、今は市町村合併で二本松市となった福島県中通りの山間部。マンガ雑誌は薬局に「なかよし」(講談社)が数冊入る「なんかイノシシとかいるところ……」という土地で、小谷が夢見ていたのは、魔法使いになることだった。

「人と同じ行動をとるのがツラくて……大人になるにつれて、なれないなとわかってやめたんですけど」

 そういった過去を「一定の年齢まで信じていたから、危ないなとは思っています」とは言いつつも、当時の小谷は本気だった。小学校6年生の頃、10年に一度規模の台風が福島県に上陸した(平成10年台風5号だと思われる)。

「私はそろそろ空を飛べる、この風に乗って別の世界へ行ける!!」

 嵐の中、家を出た小谷は、強い決意を持って近所の山の崖から飛び降りた。空を飛ぶ事はできず、傘を三本ぶっ壊して大人に怒られただけだった。その他、悪事をやらかして全校集会を開かせたりした。「劣等生で悪童であった」と小谷は振り返る。

「親は、ちょっとオツムの具合がアレかなっと。両親は真人間だし、弟も真人間だし」

 現状維持が美徳の保守的な田舎の村で、小谷のような子どもは浮いていた。『私だってするんです』の単行本が発売になり、地元の大きな書店は、地元出身のマンガ家として大きく棚を割いている。サイン本の依頼もある。田舎に帰れば、仲良く話せる旧友もいる。それでも「東京でマンガ家をやっているという時点で、やっぱり浮いている」というのが、小谷の見立て。単行本の加筆されたページにも記されているが、作品の登場人物のモチーフには、故郷の友人たちもいる。時折、帰郷した時に、その友人たちと落ち合う。そんな時に、何気なく口に出る今の幸せや、これからの人生の目論見……旧友たちの思い描く幸せとの解離を感じている。

「そういうところに帰りづらいという思いはありますね」

 自ら「今でいうところのスクールカーストの最底辺みたいな、根暗」と、十代の青春を語る小谷。でも、その最底辺に属することで、逆にすんなりと見えてくるのが複雑な人間模様や、得体の知れない輝きを放つ人々の姿。だから『私だってするんです』に描かれるキャラクターの多くは、これまで自分が人生で出会い、興味を持った人々の中から生まれてくる。

 例えば、作中に登場する地味で目立つタイプでもないくせに、すでにセックスも体験していることがわかり、林檎を驚かせるクラスメイトの中村広子。そのモデルは、地味なのに性には発展的だった同級生。

 たとえ人口の少ない田舎町でも、学校に行けば作中に出てくるようにさまざまな興味深い同級生たちがいた。でも、キャパシティのない地域社会の中で、異端者が折り合いをつけて暮らすのは、甚だ難しい。進学や就職など、さまざまな方法で、生まれ育った土地を後にするのは必然である。小谷の場合、進学がそれだった。選んだのは、女子美術大学。それもまた、地元では異端な進学先。けれども、大学に入れば、そこは世間の常識などものともしない人々が溢れる世界。

「私の美大は全裸になって自分の肉体に色を塗ったり、芸術の方法が過激な子とか、フツーにレズビアンの子とかもいたんで……」

 そんな枷を解かれた世界で、小谷はマンガ家としての人生を明確に描き始めていた。もともと、マンガ家になろうと思ったのは、魔女を断念した直後。憧れの優等生の先輩が、マンガ家になりたいと言っていたのがきっかけ。

「自分にはないから、この世界ではリア充をって、害虫とかは一切出てこない、青春のぞわぞわする感じのを描いてました」

 それもまた、閉塞した村の中での見えない枷だったのか。上京してから小谷は、青年誌へとシフトして才能を開花させようとしていた。単に憧れるだけではなく、着実に階段を上っていた。講談社の新人賞「第23回講談社MANGA OPEN」での奨励賞を経て、09年からは『害虫女子コスモポリタン』の連載も得た。その間の修業時代。高橋しんのアシスタントをしていた時には、忘れられない思い出がある。高橋は時々、通常のアシスタントの仕事とは別に、複雑なキャラクターの心情を、表情で描く指示をしてくることがあった。ある時、高橋はプロットを小谷に渡してキャラクターの「泣いたような顔で笑う」コマを描いてみるよう指示した。

 小谷はあれこれと必死に考えて、高橋から指示された表情を描いた。それを見た高橋は「なるほど、これが泣き笑いの顔か」と呟いた。「その時、先生に認められたんだと思って、うれしかった」と小谷は言う。単にマンガ家とアシスタントの関係ではない。自分の下で働く後輩たちの成長を促すきっかけを与えることを惜しまない高橋。こうした経験は、着実に小谷を成長させていった。

 アシスタントとして修業を積む間に『害虫女子コスモポリタン』の連載も始まった。不定期連載とはいえ、アシスタントをしながらという、ぬるま湯のヤバさも感じて、小谷はマンガ家として独り立ちする決心をした。その時には、自分もこれからマンガ家として、着実にキャリアを積んでいくことができるという、希望もあった。でも、順風満帆にはいかなかった。

「まあ、不遇の時代が長かったですよね」

 2冊の単行本が出た後、講談社からの仕事は途絶えた。単行本が出た後に仕事が途絶えてしまったマンガ家は、ある意味で新人よりも苦労を強いられる。再び、さまざまな編集部に持ち込みに回っても、既存の作品の評価や売上で、足元を見られる。持ち込みに行った先の編集部で「うちでは厳しい」と突き返され、罵倒までされた。マンガ家仲間の中には、心が折れて田舎に帰る者もいれば、リストカットをする者もいた。毎日、納豆かチンゲン菜のどちらかばかりを食べてマンガを描き続ける日々。マンガ家としての矜持と財布が底を尽きそうになると、水商売を始めた。

 小谷が最初に水商売に心を引かれたのは、大学生の時であった。

「今でもそうですけど………多分、自分に自信がなかったからだと思うんです」

 水商売というのは、指名数などさまざまな形で自分に値段がつく世界。だから、自分が女性として、どれくらいの価値があるのか知ることができるのではないかと考えた。それは、東電OL殺人事件の被害者となった、あの女性に似たメンタリティ。ただ違うのは、あの女性が自分の肉体の価値を確認することを求めたのに対して、小谷は自分の女性としての価値を測りたかったということ。新宿や新橋、町田と、各地のスナックやラウンジを転々としながら、自分でも説明のつかない衝動を埋めようとしていた時期があった。

 そして、再び生活の糧を得る手段として足を踏み入れた水商売の世界。けれども、小谷はどっぷりと足を踏み入れはしなかった。ネオンの巷で働くうちに、そこで見る人間模様が小谷に、マンガをもっと描きたいという衝動を与えてくるのだ。マンガに軸足を置いては、また夜の世界へ。それを繰り返す中での体験が『私だってするんです』という作品の実を少しずつ育てていった。

 ある少し高級なクラブで働いている時だった。いまだバブル時代が続いているようなタイプの馴染み客がいた。その夜は、酔いも回っていたのか、客は小谷を執拗に夜に誘った。客とはいえ、まったくタイプではない男だった。それもあって、小谷は水商売のテクニックではなく、ごく自然な感じで言った。

「私、今日は自分でするんで、すみません」

 考えもしなかった小谷の言葉に、客の男は驚いた顔をしていった。

「そんな悲しい、そんな悲しいことを言うなよ。俺がいるだろ。パイプカットしてるんだぞ、俺は安心なんだぞ、イカせられる……」

 その客の言葉が、夜が明けても小谷の心中にずっと引っ掛かっていた。それより前に「男の人は自分たちはするけど、女の人がするっていうのを信じたくない」という話を聞いたことがあった。なんで、そんな齟齬が生じるのか気にかかっていた。自分は、とりわけ文章をオカズにやっている。中でも渡辺淳一の小説は「淳一、やるな」と思いながら、興奮してしまう。自分でマンガを描いている時にだって、事故のようにエロい気持ちになってしまうこともある。一方で、女性の側にも、何か引っ掛かるものがある。多くの男性と関係を持ち、それを誇るように話す女性であっても、オナニーの方法やオカズを聞くと、途端に否定的な態度を取ってくる。いくら巷にエロメディアが溢れているといっても、自由さはない。とりわけ、女性の性に感じるのは、価値基準が男性のフィルターを通した「自分がいかに愛されているか」といったものに限られていること。

 そうじゃない楽しい世界は必ずある。別に「私たちは!」と机を叩くようなものではない。仲間たちと、こういうことをやっているんだよ。面白い。自分もそういうことをしてみよう……そんな、前向きさのある自由で気持ちのよい世界があるはずなのに。



 神楽坂の早稲田通りに面した『くらげバンチ』のオフィスで、佐藤はいつものように業務をこなしていた。担当するマンガ家との打ち合わせ。原稿の進行の確認。いくつかの仕事をこなした後、持ち込み原稿を読む。封筒で送られてきたのは、最近は減った手描きの原稿。数作品あった中の、ひとつを読んで佐藤は思った。

「これは、モノになるかもしれない」

 マンガ家になりたいといっても、なれるのはホンの一握り。デビューしてからも、マンガ家として続けていくことができるのは、さらに一握り。すでに2冊の単行本を出した後、数年間の沈黙が続いているマンガ家。そんな人物の作品が、どんなものなのか。海の物とも山の物ともつかない。ともすれば、一度はデビューしたという安っぽいプライドは、妙な癖のついた我の強さばかりを肥大化させがち。でも、その作品は、佐藤の心臓に突き刺さった。

「女性のオナニーについて、女性自身が描いている」

 男性にとっては謎の部分。エロマンガなんかで、男性が好むスタイルで描かれることはあっても、その実像をする術もない。それを知ることができたら、面白いじゃないか。

 すぐに佐藤は、原稿の主……小谷に連絡をした。

「これ、すごく面白いと思います」

 そこから連載開始までは、1年あまり。何度も打ち合わせと描き直しが続いた。テーマには確固たるものがある。それを、エンターテインメントとして、どのように見せるか。『くらげバンチ』は、Webという特性も生かして実験的な作品が並ぶ。一種特異な作品を求めてアクセスしてくる読者に向けたエンターテインメントとは何かを探った。

 これまで、一貫して手描きで原稿を描いてきた小谷にとって、Webへの戸惑いもあった。自身もマンガは紙で読むことに慣れ親しんできた小谷。画面をスクロールしながら読むWebのスタイルは、自分の作風には向いていないのではないかという恐れもあった。

 打ち合わせを重ねて、ようやく連載が始まった。始まってしまうと、恐れは新たな発見と好奇心へと転換していった。紙媒体にはない、読者からのダイレクトな反応。もちろん、いい話ばかりではない。「悪口を言われるとツラくて創作に支障が出たり、匿名でしか好き勝手言えないような奴は肥溜めに落ちろと思うことがあります」という赤黒の感情も湧き出す。けれども、紙媒体とは違う読者の直接的すぎる反応は、小谷の創作意欲をさらに高めている。単純に「共感」されることに喜ぶのではない。読者自身がコメントの中で書き記す読者自身の行為。それが、小谷の探究心の新しいスイッチをオンにするのだ。

「……自分のリアルな恋愛とかセックスが充実していたら、生まれなかった作品だと思っています。そういうものに自信がないから、こういう性的な作品が描けるんだと思っているんです」

 これまで、付き合った男に話が及ぶと小谷は、少し笑いながらいった。

「まあ、そうですね。悲しいっていうか。ちょっと、乱暴だったっていうか……」

 そうした、人には言えない経験。暖かい家庭を築くこととはかけ離れた体験。それを、マンガ家の芸の糧として誇るわけではない。それは、広く世間から見れば恥ずかしいことかもしれないが、そのことをも糧にしていく性を持つ自分を、徹頭徹尾客観視している。その観察眼は、内面だけではなく周囲にも向けられている。オナニーを通じて明らかになるさまざまな性癖。そして、個人の日常。興味を惹かれて、昂ぶりは止まらない。でも、決して自分にはないものがある。上から見て、分析したり、自分のほうが優れているという気持ちを巧妙に隠しながら、見下したような同情をするような気持ちのようなものは、どこにもない。

「みんなそれぞれ違うところを『こーいう違いもあるのか』と楽しみ合えればと思います」

 そして、小谷はまた笑う。
(取材・文=昼間たかし)