人気コミックの実写化はファンから深く愛されている作品ほど、そのハードルは高くなるが、ここに原作ファンのみならず、原作者からも愛される幸せな映画が誕生した。熱烈なファンを持つ漫画家・新井英樹の代表作を、吉田恵輔監督が映画化した『愛しのアイリーン』がそれだ。

農村の過疎化、契約結婚といった社会的テーマに加え、読者に強烈なインパクトを与えた“きれいごとでは済まない愛の形”は、実写映画でもしっかりと主題として据えてある。フィリピンでのヒロインオーディション&ロケを敢行することで実現した映画『愛しのアイリーン』を、原作者・新井英樹はどう受け止めたのか。また、他の作家の追随を許さぬ新井英樹ワールドはどのようにして誕生したのか。そのディープな世界に分け入ってみよう。

──新井作品を愛する吉田監督によって映画化された『愛しのアイリーン』は、配役もうまくハマり、完成度が非常に高いですね。

新井 ほんと、そう思います。
幸せな結果になりました。

──長編デビュー作『宮本から君へ』がテレビ東京系で4月~7月に連続ドラマとして放映されたのに続いて、代表作『愛しのアイリーン』も映画に。原作の発表から四半世紀を経て、若手監督たちによって次々と新井作品が映像化されていますが、ご本人的にはこの状況をどのように感じているんでしょうか?

新井 単純にね、届いててよかったなと。俺自身がいろんな映画や漫画の影響を受けているので、自分がいい影響を受けたなと思える部分を下の世代にも伝えたいと思っていたんです。でも、まさか『宮本から君へ』『愛しのアイリーン』と2本続けて映像化されるとは思いもしなかった。しかも、『宮本から君へ』は真利子哲也監督、『愛しのアイリーン』は吉田恵輔監督と、どちらも才能ある監督が撮ってくれた。
吉田監督が『アイリーン』を撮るって、「これ絶対、面白いだろう」という気持ちもありました。

──ちなみに吉田監督作でお気に入りは?

新井 『さんかく』(10)が大好き。人間ドラマとしてよく出来ているし、キャラクターもすごくいい。途中で恋愛がもつれる展開になると、下手なホラーより怖くなる。日常が非日常に変わっていく瞬間を描くのがすごくうまい監督。「この監督が撮ってくれるのなら、何をやってくれてもいい」と思っていたんです。
でも、最初に吉田監督が『愛しのアイリーン』を映画化したいという話を持ってきたときは、どこまで信じていいのか分からなかった。「お金が集まるかどうか分かりません」と言っていたのに、20日くらいしたら撮影スケジュールが送られてきて、アイリーン役の女の子(ナッツ・シトイ)の写真も送られてきた。あまりにもアイリーンにそっくりで、大爆笑してしまいましたよ(笑)。

──ナッツ・シトイは、現地オーディションで選ばれたフィリピンの若手女優ですね。

新井 そう。それで撮影が始まって、新潟県長岡市まで撮影の様子を見に行ったんですが、俺が作ったアイリーンや岩男(安田顕)たちがパチンコ店にみんないるんで、「ここは俺にとってのディズニーランドだ! 俺の描いたキャラクターがみんないる!」と幸せな気分になりました(笑)。
自分が作ったフィクションの世界に、自分がその中にいるという不思議な感覚でしたね。

■連載中は酷評されまくった原作

──ここからは『愛しのアイリーン』が「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)で連載された当時(1995年~96年)のついてお聞きしたいと思います。『宮本から君へ』(講談社『モーニング』連載)は文房具メーカーに勤めていた頃の実体験をベースにして描いたサラリーマンものでしたが、そこから一転。農村を舞台に、外国人妻との契約結婚という社会的テーマに挑んでいった。

新井 「誰でも一本は傑作を書くことができる」。映画『祭りの準備』(75)で知った新藤兼人の言葉です。

つまり、自分のいる世界を書けばいいわけです。俺にとってのそれが『宮本から君へ』でした。読み切りの短編漫画として『宮本から君へ』を描いたんですが、好評だったことから連載化され、ああいうストーリーになった。じゃあ、次に描くのは自分が体験したことのないものをやろうと考えたんです。別に社会派作品を狙ったわけではなかった。神奈川県生まれで田舎の生活を知らないので、農村を舞台にしよう。
女を描きたい。しかも、女同士の闘いを描こう。そう考えていたところ、小学館の編集者が当時ニュースになっていたフィリピン妻のことを教えてくれたんです。主人公の岩男はパチンコ店に勤めているけど、俺はパチンコを全然やらない。全部、自分の知らないことを描いてやろう、ということで始まったのが『愛しのアイリーン』でした。『宮本から君へ』の主人公はサラリーマンだったので、組織の枠にいない人たちを描いてみたいという気持ちもありました。

──まるで知らない世界を描いたにしては、ひどく人間臭いキャラクターばかりですね。

新井 誰かとSEXすることがこの世のいちばんの幸せと考えているような、サラリーマンタイプじゃない変人たちを描きたかったんです。周りにそんな人が多かった(笑)。学生時代はいかにもな労働者たちと一緒によく働いたこともあって、片腕がなかったり、「俺の夢はマリリン・モンローとSEXすることだ」と自慢げに話す40歳すぎのおっさんだったり、変わった人が多かった。女子生徒に手を出して学校を追い出された教師とか、普通の女性は避けたがるような人たちばっかり。でも、話すとすごく面白いわけです。自分が作った世界を、そんな人たちで溢れ返らせたかった(笑)。

──連載開始前、フィリピンへ取材旅行に出向いたと聞いています。

新井 行きました。集団お見合いにも参加させてもらいました。かなり面白かったですね。でも、連載中は「なんで、こんなひどい漫画を描くんだ」と、さんざんの言われようでした。日本語が話せないアイリーンと会話するために、岩男はタガログ語の辞書を買うんですが、日本で1人か2人しかいないタガログ語の辞書の著者に許可をもらって漫画に描いたんです。「あんたの辞書、ひどい漫画で使われているよ」と耳打ちした人がいたみたいで、連載中に「僕の辞書はもう使わないでください」と言われてしまった(苦笑)。

──連載途中は、まさかあんな感動のクライマックスが待っているとは読者は誰も予測できなかったと思います(笑)。

新井 こちらとしては描きたいものがちゃんとあって描いているわけだけど、そこへ行く過程で照れ隠しもあって、下世話なことも描いてしまうわけです。まぁ、連載中は誰も読み取ってはくれませんよね(笑)。

■作者自身がスリルを感じながら執筆している

──『宮本から君へ』では、主人公の宮本は恋人がレイプされたことから暴走を始める。『愛しのアイリーン』ではフィリピン人のアイリーンと契約結婚を交わした岩男は、アイリーンを守るために猟銃を手にして暴走を始める。主人公の暴走劇は、新井作品の大きな見どころ。暴走シーンを描くのは体力を使うし、そこに至るまでに緻密な世界観や人間関係を築き上げなくてはならないので、大変な作業かと思います。

新井 もちろん、肉体的にはとても大変です。でも、俺はストーリーそのものには、さほど興味がないんです。だいたいの枠組みは頭の中で考えてはいるけれど、実はそれまで緻密に築き上げてきたように見える世界観を早く壊したいとしか考えていないんです。今ある世界を横殴りにして壊したくて仕方ないない。そして、そのときに人間はどう動くんだろうということに興味があるんです。もしかしたら、自分が考えていることとは違うことが起きるかもしれないぞと。予定不調和が大好き。それが楽しくて、漫画を描いている。逆にいえば、そこに至るまで、緻密に世界を築いていく過程はつらくてどうしようもない。

──苦労して築き上げた世界を一瞬で壊してしまうのが快感ということですか。

新井 そういうことです。予定調和が大嫌いなんです。子どもの頃から、勧善懲悪もののテレビ時代劇を自宅でおばあちゃんや母親が観ていると、「なんで、こんなもの観ているんだ!」と罵倒していました。最後は善人が悪人を倒して終わり、という物語は耐えられない。俺が子どもの頃に観ていた時代劇は、三隅研二監督が撮った『子連れ狼』(72)や勝新太郎が主演した『御用牙』(72)とか、そっちのほう。視聴者観覧型のバラエティー番組『笑っていいとも!』(フジテレビ系)が醸し出す空気も大嫌いでした。みんなで同じことをやらされるのが、すごく嫌。それが漫画にも出ているんだと思います。

──だいたいの枠組みは考えるとのことですが、暴走した際の明確な着地点は分からずに描き続けるわけでしょうか?

新井 明確になるのは、打ち切りを言い渡されたあたりからです(笑)。連載の打ち切りが決まった。じゃあ、ここらへんに着地することになるかなと。尻が決まれば、それまで描いてきたものの中に何か活かせるものがあるはずだと思い返すわけです。基本、そんな感じ。「俺、これをどうやって終わらせるんだろう」と自分自身がスリルを味わいながら、楽しんでいるんです(笑)。前もって決めていた筋書きに沿って、ネームを考え、ペンを入れて漫画を仕上げていくという工程がすごく苦手。そういったルーティンワークが嫌で、サラリーマンを辞めて漫画家になったわけですから。多分、吉田監督も俺と同じで、飽きっぽい性格なんじゃないかな。撮影現場で思ってもいなかったことが起きることを、ドキドキしながら楽しむタイプだと思いますよ。

■男と女がいちばん燃えるシチュエーションとは……?

──中にはコントロールできないことを嫌がる漫画編集者もいるのでは?

新井 いますね。でも、『愛しのアイリーン』の連載中は、「新井さん、ちんこは描いちゃダメだよ」と言われたぐらいかな。それで『愛しのアイリーン』では岩男のちんこ部分をぼやかすためにスクリーントーンを貼ったんだけど、それで余計に目立ってしまった。みんな苦笑いで済ませてくれたから、「あっ、ちんこ描いても平気なんだな」と。別にちんこをすごく描きたいわけじゃないんですよ。あるものを描かないことが嫌なんです。気づいたら、俺が描いた男の主人公たちは、みんなちんこを出してました(笑)。

──原作と同様に、映画でも岩男とアイリーンが初めてSEXするシーンは大変な熱量で描かれています。まさに血と肉を乗り越えて、2人は繋がることになる。結婚はきれいごとだけでは済まないという、愛の実相をここまで鮮やかに描いた作品はそうそうないと思います。

新井 (うなづきながら)原作では岩男とアイリーンがどうすれば結ばれるかを考えて、序盤に山狩りのシーンを用意したんだけど、それでは2人を近づけることができず、山狩り後ってのは棄てました。じゃあ、どうすれば2人を結ばせることができるかを考えに考えました。そのとき思い出したのは、パチンコ店に勤めている吉岡愛子が、殺人を犯した夫に抱かれたときにすごく燃えたというエピソードでした。「あっ、これが使えるな」と。多分、「心から愛しているよ」みたいなきれいごとを言われても盛り上がれない。男と女が共犯関係に陥ったときこそ、最高に燃えるんだろうなと。これこそ恋愛だ、本当の愛だと誤解する瞬間でもあると思うんです。共犯関係に陥った男女は、もう止まらなくなるだろうなと。手探りで描いていた『愛しのアイリーン』でしたが、これで乗り切れるという手応えを感じた瞬間でしたね。

──ある人間の死が、生き残った男女に性の喜びをもたらす。エロス&タナトスの世界ですね。

新井 実は『宮本から君へ』の最終話は、二度ボツにされたんです。最初に考えたのは、宮本が飛行機に乗って海外に旅立ち、その飛行機が墜落するという結末でした。もうひとつ考えたのは、宮本の暮らしているアパートの隣室でテロリストが爆弾を作っていて、その爆弾が誤爆し、宮本はその巻き添えになって、やはり死ぬというものでした。編集者から「この主人公はそういう終わり方をしちゃダメだ」と言われて、それでああいう結末になったんです。でも、人間が意味のない死に方をすることって、実際あると思いますよ。アメリカンニューシネマが好きだったことも影響を受けているかもしれません。アメリカンニューシネマは、みんな主人公は最後に死ぬでしょ。『愛しのアイリーン』を描きながら、「今度は人間の生死を描けるな」と思っていたんです。それがさらに『ザ・ワールド・イズ・マイン』へと繋がっていくことになった。

■幻に終わった『ザ・ワールド・イズ・マイン』の実写化

──テロリストたちの無軌道な暴走を描いた問題作『ザ・ワールド・イズ・マイン』(「週刊ヤングサンデー」連載)は、『宮本から君へ』からすでに萌芽があったとは! 深作欣二監督で『ザ・ワールド・イズ・マイン』を実写映画化する企画もあったというのは本当ですか?

新井 深作監督でそういう企画があったことは聞いてました。深作監督の息子さん(深作健太監督)が引き続き映画化を考えていたそうですが、残念ながら流れてしまいましたね。

──映画化された『愛しのアイリーン』ですが、今村昌平監督の『にっぽん昆虫記』(63)や『楢山節考』(83)を彷彿させます。原作執筆時から意識されていたんでしょうか?

新井 今村昌平作品が大好きなんです(笑)。ツル(木野花)が岩男を出産した頃を回想しているシーンは、原作でも『にっぽん昆虫記』をイメージしたものでした。後半はもちろん『楢山節考』です。今村監督が描く女性像が好きなんです。イデオロギーもこだわりもないけれど、今村作品の女性たちはたくましく生きていく。それに比べて、男たちのなんと弱いことか(笑)。知り合いの作家から聞いたんですが、今村監督は『宮本から君へ』と『ザ・ワールド・イズ・マイン』は読んでくれていたそうです。『ザ・ワールド・イズ・マイン』を読んで今村監督は、「この作者は50代で……」と話していたと聞き、うれしくなりました。『ザ・ワールド・イズ・マイン』を描いていた頃は、俺まだ30代でしたから(笑)。

──日本人ならではの土着的な世界を撮り続けた今村監督が、『ザ・ワールド・イズ・マイン』を映画化していたら、一体どんな作品になったことか。

新井 もし実現していたら、面白かったでしょうねぇ。

■高校時代にさかのぼる新井ワールドの原風景!

──今村監督の弟子筋に、バイオレンス映画で知られる三池崇史監督がいます。三池監督は大阪工業大学付属高校(現在の常翔学園高校)1年のときラグビー部に在籍しており、「最初のプレーでモールやラックでもみくちゃにされると、全身にアドレナリンが走って気持ちよくなり、それから体が動き始める」と語っていました。

新井 そうですか。俺も高校のとき、ラグビーをやっていました。

──新井作品の主人公たちもボコボコにされることで覚醒し、暴走を始める。予定調和が嫌いな点など、三池監督とどこか共通するものを感じます。

新井 俺の場合はMっけがあるんだと思います。好きになった女性には、男がいてほしいとね(笑)。寝盗られ物語とかも好きです。高校3年間ラグビー部にいたんでね、肉体と肉体がぶつかり合うときの痛みや、転んで地面に当たる瞬間の衝撃は知っているわけです。漫画を描くようになって、そのことは自分の財産だと考えるようにしています。人間同士がぶつかると痛い。しかも痛いのは肉じゃなくて骨なんだと。そういった肉体の感じる痛みは、漫画でちゃんと描こうとしています。

──高校時代のラグビー体験は、新井作品にかなり影響を与えている?

新井 それはあると思います。高校に入ってからラグビーを始めたんだけど、ラグビー中毒かと思うくらいハマっていました。走っている相手に飛び込んで、タックルするでしょ。相手と一緒に宙を浮いて、飛んでいる瞬間が気持ちいいんですよ。高校3年の最終シーズンを迎えた春合宿中の練習試合で、残り最後の5分というときに、相手2人目がけて向かっていったんです。その頃の俺は怖いものなしで「2人くらい全然平気!」と思っていたんです。ところがその瞬間に足首の靭帯を切ってしまい、最後のシーズンを棒に振りました。最後の大会は結局、試合に出ることができず仕舞い。県大会の何回戦かでうちの高校が敗れて、みんな泣いているのに、俺ひとり醒めていましたね(苦笑)。

──苦労して築き上げてきた世界が一瞬にして崩壊するという、新井ワールドの原風景ですね。

新井 もうひとつ暴力に関して言うと、これはクリント・イーストウッドの受け売りになってしまうけど、「暴力から逃れる物語はありえない」と。暴力が物語に入ってこないとしたら、それは見ていないだけなんです。当然、俺が描いている世界にも存在するものだし、主人公の身近に起きることかもしれない。そんな不条理なことが起きたら、どう対処するのかと。想像以上の力を発揮して抵抗するかもしれないし、無茶をやり過ぎて潰れてしまうかもしれない。ドラマを盛り上げるために、主人公をピンチに陥らせることがあるけど、俺はそういうのは大嫌い。どうせこの人は助かるんでしょ、と思ってしまう。俺の描く作品は、よく露悪的だと言われるけど、品のあるものを描くのなら、ちゃんと下品なものも描かなきゃといけないということなんですよ。

(取材・文=長野辰次/撮影=尾藤能暢)

『愛しのアイリーン』
原作/新井英樹 脚本・監督/吉田恵輔
出演/安田顕、ナッツ・シトイ、河井青葉、ディオンヌ・モンサント、福士誠治、品川徹、桜まゆみ、田中要次、伊勢谷友介、木野花
配給/スターサンズ R15 9月14日(金)よりTOHOシネマズ シャンテほか全国ロードショー
(C)2018「愛しのアイリーン」フィルムパートナーズ
http://irene-movie.jp

●新井英樹(あらい・ひでき)
1963年神奈川県生まれ。明治大学卒業後、文具メーカーに勤めるも、漫画家を志して退職。89年に高校ラグビー部での体験を題材にした「8月の光」で漫画家デビュー。92年に『宮本から君へ』(講談社)で小学館漫画賞を受賞。以後、『愛しのアイリーン』『ザ・ワールド・イズ・マイン』『キーチ!!』『なぎさにて』(すべて小学館)と問題作を次々と発表し、多くのクリエイターたちに多大な影響を与え続けている。『宮本から君へ』(テレビ東京系)は池松壮亮主演作として連続ドラマ化され、10月3日よりブルーレイ&DVD-BOXが発売される。