日本芸能界において数々の功績を残したジャニーズ事務所社長・ジャニー喜多川氏が急逝した。ここでは特別寄稿として、雑誌ジャーナリズムにおける、ジャニーズ事務所と対峙した“縁のある識者”らに、彼が残した芸能界への功績と寄稿者によるジャニーズ関連記事への思いを振り返ってもらいたい。
芸能界に大きな足跡を残した「ジャニーズ事務所」創設者・ジャニー喜多川氏が87年の生涯を閉じた。私にとってジャニー氏は常に取材対象者であり、なにかと因縁のあった芸能プロ社長のひとり。だが、直接本人を取材することは結局叶わなかった。
ジャニー喜多川氏は米国ロサンゼルスで生まれた。両親は共に日本人。真言宗の僧侶だった父親が布教の為に渡米。リトルトーキョーにあった高野山米国別院の主幹を務めていた関係で、幼少期はロスで過ごす。両国の国籍を所有していた。一時、日本に戻り和歌山や大阪で過ごしたこともあったという。母親が若くして他界したため、姉で現・ジャニーズ事務所副社長のメリー喜多川氏が2人の弟の母親代わりだった。
姉弟の絆も、ジャニーズ事務所の原点である。
2人は当時の事をあまり語ることがない。人を介してして知ること以外に知る由もない。ちなみに、2人の間にいたジャニー氏の兄は米国「NASA」で、科学者として働いていたという。ジャニーズ事務所には関わっていなかったとされている。それでも、ジャニー氏がタレントらを連れてロスで本場のショーなどを学ぶ際には、兄がガイドをしながら面倒を見ていたという。
「僕らは確か“マー坊さん”と呼んでいました。ジャニーさんと同じようにとても親しみやすい人で温厚な人でした。よく面倒を見てもらいましたね」(ジャニーズOB)
50代で死去。家族はいたというが、杳としてその後の家族についてはわかっていない。
話はそれたが、ジャニー氏は帰国後、男性アイドルグループ「ジャニーズ」を結成(後述)し、ジャニーズ事務所を立ち上げる。
晩年は媒体を選び週刊誌に出たこともあったが、基本はスポーツ紙のジャニーズ担当記者限定で食事をしながらの懇談会のような形で語ることが多かった。記者によれば「タレントのことやショーの話はとにかく饒舌。延々と話す人」という。ただし、記事にする場合は事務所から「使っていい話。ダメな話」と指示があった。これが本人による指示か事務所によるものかは定かではないが、タレントの話でも注文の多い事務所。想像はつく。
直接取材が叶わなかったが、所属タレントの、主にスキャンダルを取材しているうちに、取材の矛先が次第にジャニー氏に向いていた。「この人は何者だ?」と探れば探るほど興味が増していく不思議な人だった。
「男の子を見出だす天才的な眼力」「ショーの作り方」など、ジャニー氏の表の話は亡くなった後も、タレントや関係者の口から語られている。
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●[スカウト方法]
ジャニー氏は天性の眼力で男の子をスカウトしていた。本来の芸能プロのやり方とは明らかに異なる。本来、スカウトは歌や踊りを見てスカウトするもの。例えば、沢田研二は京都のライブで歌っているところナベプロがスカウトした。
今はオーディション全盛期。各事務所とも「俳優・歌手・タレント」など才能を見出だすための審査をする。ジャニー氏はビジュアルありきでスカウト。歌や踊りは入ってから専任の先生からレッスンを受けてデビューさせていく。
受験に合格があれば不合格があるように、ジャニーズにスカウトされて入ったがデビューすることなく去っていく子もいる。こんな逸話が語り継がれている。
「ビジュアルでスカウトするのですから、そうそう歌も踊りも上手い子ばかり揃うはずもない。それをレッスンでなんとかするにしても、自然に差はできてしまう。だが、グループならごまかせる。グループにするには多少、ヘタな子でも入れる必然性ができてくる」
この話は思わぬ形で証明された。メリー喜多川氏がSMAPに独立騒動が起きた2015年に「週刊文春」のインタビューを受けた際、「SMAPは歌も踊りも下手じゃないですか」と発言している。メーカー会社の幹部が売れている自社製品を「これはダメだ」と世間に公言しているようなものである。
●[合宿所生活]
社長の名前からとった4人組“ジャニーズ”が、1962年にデビュー。
「ハイツという名だったと思うけど、1階にレストランが入っていて、ジャニーさんが留守の時でもレストランで好きな料理を食べられた。まだ幼い少年でしたから、最高の贅沢でした」とOBが回顧してくれた。
部屋には米国のミュージックビデオや娯楽製品があり、ジャニー氏も一緒になって遊ぶこともあれば、音楽の話を聞かされたという。そのうち、いつの間にか「歌と踊りをやってみたい」と思うようになった子も少なくない。このスタイルは今も変わっていない。
現在は高級マンションの最上階に部屋を二つ持っていて、時にはジャニー氏自ら手料理をもてなしてくれたという。外で食事する時は「デニーズ」などファミレス。ジャニー氏も一緒になって食べる。
時には少年たちにも振舞ってくれたという。私が初めてジャニー氏の素顔を見たのも青山にあったデニーズだった。少年たちに囲まれて楽しいそうに歓談する姿からは、とても社長とは思えない。普通のおじさんだった。
仲良く食事をしながら談笑する光景は微笑ましいものだった。ちょうど休日に父親と子供がファミレスで食事をする。そんな光景にしか見えなかった。
タレントたちが親しみを込めて「ジャニーさん」と呼ぶのも親子と変わらない付き合いをずっと続けてきたからに他ならない。タレントの誰もが親しみを持てる社長。タレントを愛し、タレントに愛された一生だったと思う。
●[落ちこぼれ組]
家族葬には所属する総勢150人のタレントが笑顔で送るという異例なものだった。現在、活動しているタレントの数だけでも驚きの数字であるが、デビューに至らなかった「落ちこぼれ組」も必ずいる。それがプロの世界でもある。
デビューできる子は表の話として大きくメディアに載るが、落ちこぼれ組は、そうはいかない。ただ、静かに去っていく。私が興味を持ったのはこの落ちこぼれ組だった。
プロ野球でもスカウトされて入団したが、一軍デビューすることなく引退していく。プロ野球の話はドキュメントとしてよくテレビで取り上げている。落ちた者にもドラマがあるのだ。
落ちこぼれ組。私が興味を持った原点だった。辞めた理由もそれぞれあった。「タレントの仕事に向いていなかった」「志望する高校を受験したい」「親に連れ戻された」など10代の少年らしいまともな子もいる一方で、「素行不良」などで事務所を去る子もいた。
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こうしたことに興味を覚え、断片的な取材を進めるうちに、ある疑惑を耳にした。そう、ジャニー喜多川氏による「ホモセクハラ疑惑」である。
1999年、「週刊文春」が「ジャニー喜多川氏のホモセクハラ疑惑」という衝撃の連載を始めた。私も特別取材班のメンバーの1人だった。
以前からジャニー氏のホモセクハラ問題に関しては、元ジャニーズのタレントが暴露本を執筆するなどあったが、「元タレントが一方的に言っているだけ」とされ、すべては真実とは限らず、やがて都市伝説のように伝えられていた。だが、筆者が聞いたある少年の話は、具体的なもので、とても作り話とは思えなかった。
話に信憑性ありと判断。連載のきっかけになった。詳細は省くが、連載は反響を呼んだ。芸能界も「ここまでやるのか」と固唾を飲んで「ジャニーズvs文春」の対決を注目していた。追随するマスコミはなかったが、故・梨元勝芸能レポーターだけが記事に賛同するように追及しようと働きかけてくれた。あまりに衝撃的だったのか、ついにジャニーズ事務所は連載途中で「文春」を名誉棄損で訴え、裁判になった。いまだ例のないホモセクハラ裁判。
最終的には損害賠償とし、120万円を文春が支払う判決が決定したが、セクハラに関しては「記事の主要部分は真実」と認定。事実上の文春の勝利と言われていた。
今回のジャニー氏死去のニュース報道では、朝日新聞だけがこの裁判の話を紹介していた。
ふただ・かずひこ
芸能ジャーナリスト。40年近く女性誌・写真誌・男性週刊誌で記者として活動。「週刊文春」の「ジャニー喜多川のホモセクハラ疑惑」の連載も取材チームのメンバーの一人として参加。