せき‐にん【責任】
①責めを負ってなさなければならない任務。引き受けてしなければならない義務。
②(━する)事を担任してその結果の責めを負うこと。特に、悪い結果をまねいたとき、その損失などの責めを負うこと。
出典:『精選版日本国語大辞典』
“責任”とはどういう意味なのか。もちろん、一般的に使われている責任という言葉の意味はわかるが、例によって軽すぎる安倍晋三首相の「任命責任は私にある」の言葉にうんざりして、「この人、責任を取るってどういうことか考えたことあるのだろうか」など改めて感じたので、そもそもの意味を辞書アプリで調べてみた次第だ。
閣僚の不祥事と疑惑はもはやお約束
閣僚が不祥事で更迭という事態はとくに珍しいというわけではなくなってしまったが、9月11日の第4次安倍第2次改造内閣の成立からわずか1ヶ月半、立て続けに2人の閣僚が辞任するというのは、さすがに異例の事態といえるだろう。
10月25日に辞任した菅原一秀前経済産業相は地元でのメロンやカニの贈与疑惑が浮上して批判が続く中、秘書が有権者の通夜で香典を渡していたことが「週刊文春」(文藝春秋)に報じられたことが決め手となり、その翌週31日に辞任した河井克行法相は妻で参院議員の河井案里氏がウグイス嬢に法定上限を超える報酬を渡していたことが同じく「週刊文春」に報じられたことがきっかけとなった。
ここで、これまでのパターンを振り返ってみよう。2012年12月の第2次安倍内閣発以降、辞任した閣僚は河井氏で10人目だ。
まずは2014年10月の小渕優子経済産業省(肩書は当時。以下同)。
以上のそれぞれに任命責任があったことを踏まえての第4次安倍第2次改造内閣も、今回の有様になっているわけだ。
安倍首相は菅原・河井両氏の辞任について「任命責任は私にあり、こうした事態になってしまったことに対しまして国民に深くお詫びを申し上げます」「河井大臣を法務大臣に任命したのは私であります。こうした結果となりその責任を痛感しています。国民のみなさまに深く心からお詫びしたい」と記者の前でコメントしたわけだが、ここまで響くものがまったくないお詫びもそうそうない。またなんかゴニョゴニョ言っているなぐらいのものである。河井氏辞任時のコメント後、記者たちの前から去ろうとしたときに「具体的にどのようなかたちで責任を取るのか」と問いただされたのだが、「国民の皆様の信頼を回復をして、しっかり行政を前に進めていくと、そのことにおいて責任を果たしていく。
安倍首相はきっと「任命責任は私にある。お詫びしたい」といえば責任を取ったことになると思っている。
2017年6月5日の衆議院決算行政監視委員会では、次のような象徴的なやりとりがあった。加計学園問題について安倍首相が同年3月13日の衆議院予算委員会で「もし(私が)働きかけて決めているなら責任を取る」と発言したことに対し、民進党(当時)の宮崎岳議員に「責任とはどういう意味か。どんな責任を取るのか」と問われて、しどろもどろになりながら例によって関係のないことを延々と喋り続けた挙げ句、委員長から「責任とは何かという質問にお答えください」と急かされて、結局「(責任の)中身についてはあえて申し上げる必要はない」と答弁。なんじゃそら。
まあ、やっぱりとくに何も考えていなかったのだろう。
そもそも、閣僚の任命責任について安倍首相が本気で考えているようなら、今回のような人事にはならなかったはずだ。菅原・河井両氏ともに以前からさまざまな疑惑が噂されていたことは有名だ。彼らの入閣の背景には菅官房長官の強い推薦があったという。組閣において、国益や国民の生活向上よりも、“お友達”で固めることのほうが優先されるのだから“適材適所”が聞いて笑わせる。加計学園問題のキーパーソンである萩生田光一氏の文科相就任なんて、適材適所どころジョークにもならない。同大臣の「身の丈」発言は大騒ぎになって英語民間試験を延期せざるを得なくなったわけだが、この延期決定も毎日新聞によれば『首相周辺は今回の決断について、『萩生田氏を守るために、試験見直しを野党に差し出した』と表現」したというから国民を舐めきっている。というか、首相周辺ってどこなんだろうか。いずれにせよ、受験生よりも大臣の首のほうが大事というわけである。しかし、それでとくに政権支持率が下がらないのだから、まあ舐められても仕方がないといえば、仕方がないともいえるが。
「責任を取る」ということは、冒頭に掲げた辞書的な意味合いでいえば、②の「悪い結果をまねいたとき、その損失などの責めを負うこと」だろう。この意味において安倍首相は数々の“任命失敗”の責任を取っているかといえば、否と言わざるを得ない。口先だけでお詫びしたところでちっとも凝りていないことは誰の目にも明白だし、むしろ、政治の混乱による損失などの責めを負っているのは国民だ。
行動経済学者ダン・アリエリーは、著書『ずる嘘とごまかしの行動経済学』などで、不品行などの“ごまかし”が社会的に感染するという研究結果を発表している。人間は自分と同じ社会集団の誰かが、道徳、倫理的に逸脱した行動を取るのを見ると、それに合わせて自分の道徳的指針を微調整して、それを許容範囲内の規範として取り入れてしまうそうだ。ちなみに、その誰かが“権威のある人物”の場合、引きずられる可能性はさらに高くなるという。今の日本の総理大臣からして、この状況。なるほど腑に落ちる。責任という言葉の意味は変わったのだ。
立場が上に行けば行くほど、本来ならば責任を取るべき人物の責任は曖昧になっていく。その口から発せられた途端、“責任”はふわふわと宙に放たれた風船のように飛んでいき、やがて所在がわからなくなる。恐らく、それはどこかで破裂して飛散し、“自己責任”という名の見えない圧力となって下々の世界へ落ちてくるのだろう。国民の生活においては、いまや貧困も格差も病気も出産も育児も教育も老後も被災も自己責任。そのプレッシャーに市井の人々は思考と行動を萎縮させていく。“美しい国”どころか、すっかり“痛ましい国”だ。果たして、その責任はどこに?