梅宮辰夫

 最後まで“昭和の俳優”にこだわり続けた銀幕のスター・梅宮辰夫さんが、12月12日早朝、慢性腎不全のため亡くなった。81歳だった。

 日大法学部在籍中に銀座でスカウトされた梅宮さんは、1958年、東映ニューフェイス5期に合格すると、翌年、『少年探偵団』シリーズで主演デビュー。その後、アクション映画や任侠映画で硬派な役を演じたが、70年から始まった『帝王』シリーズでプレーボーイ役を演じて注目された。

 私生活でも“夜の銀座の帝王“の異名をとるほど、プレーボーイぶりを発揮した梅宮さんは、女優の北条きく子と婚約したものの、解消。かと思えば、当時、銀座の超有名クラブだった『姫』のナンバー1ホステス・大門節子さんと結婚。しかし、こちらも半年で離婚した。

 その後、72年にクラウディアさんと再婚するが、出会った当時、銀座のホステスをしていたモデルのクラウディアさんは既婚だった。

遊び人の男と結婚した彼女は、男児を授かったものの、夫婦仲が悪く、事情を知った梅宮さんが、相手の男性に直談判し、多額の手切れ金を渡して別れさせたという。

 そうして72年には長女のアンナを授かった梅宮さんだが、2年後に睾丸がんを発症。しかも、左の肺に転移し、一時は助からないと宣告された。しかし、放射線科の権威といわれたM医師が執刀。梅宮さんを救った。筆者は、この執刀医と親交があったが、梅宮さんはM医師に「これからは夜遊びをやめて、娘のアンナのために生きる」と語っていたという。

 梅宮さんがアンナを溺愛していたのは広く知られていたが、94年、そんなアンナに熱愛騒動が浮上する。お相手は、“遊び人”と言われていたタレント・羽賀研二だった。梅宮さんは交際に大反対したものの、アンナがこれに反発。年頃の娘と父親の親子対決ということもあって、ワイドショーの格好のネタになった。

 ちなみに、後になってアンナは「羽賀とはバラエティ番組で出会って交際に発展した」と語っていたが、真相は違う。

 実は梅宮さんは『仁義なき戦い』などの任侠映画に出演した縁で、12年に他界した山口組5代目の故・渡辺芳則組長と昵懇の仲となり、その関係で、同じく5代目と親しかった大阪の不動産会社「末野興産」の末野謙一氏と親しかった。

 末野氏といえば、住宅金融専門会社(住専)をめぐる資産隠し事件で、その後、逮捕されているが、当時、末野氏は羽賀のタニマチだった。その末野氏がハワイのホノルルで主催したゴルフコンペに、梅宮さんがアンナを連れて参加。その時に、ゴルフをやらない羽賀とアンナが急接近したという。

 ともあれ、アンナは羽賀との交際を続け、95年には羽賀との“ペアヌード”写真集を出版。“平成のバカップル“としてワイドショーを賑わせ続けた。この騒動を受け、『梅宮辰夫の漬物本舗』の“辰ちゃん漬け”や”辰ちゃんコロッケ“もバカ売れしたが、それでも梅宮さんが2人の交際に反対する気持ちは変わらなかった。

 筆者は、当時、梅宮さんが所属していた「長良プロダクション」の会長から「一度梅宮に会って話を聞いてくれないか」と頼まれ、2人で食事をしたことがある。梅宮さんによれば、ある日アンナから2人が同棲する家で飼っている犬の面倒を頼まれたことがあったという。

 梅宮さんがその犬を動物病院に連れて行った後、2人が暮らす部屋のベッドメーキングまでして帰ってきたところ、その夜、アンナが「(羽賀とは)別れる」と言って、実家に帰って来たという。聞けば、羽賀が地方ロケで留守にするというので父親に犬の面倒を頼んだにもかかわらず、アンナが帰宅すると、羽賀が他の女と情事の真っ最中だったという。ところが、2人はその翌日にヨリを戻したそうで、梅宮さんの悩みは尽きないようだった。

 結局、その後、羽賀の借金と嘘が積み重なったことで、2人は破局。

さらに、しばらく経ってから梅宮さんが長良プロから移籍したため、筆者との関係は遠ざかったが、梅宮さんはずっとアンナの男性スキャンダルに泣かされていた。

 しかし、晩年はアンナとの父娘関係も良好だったようで、それがせめてもの救いだ。また、かつて仲間だった銀幕のスターたちが次々と他界するなか、18年に開催された『梅宮辰夫生誕80年・芸能生活60年を祝う会』では、その直前に30針を縫う大怪我を負いながら、ステージに立ったほか、最近では、ドラマ『やすらぎの刻~道』(テレビ朝日系)で役者復帰。最期まで昭和の俳優にこだわり続け、生涯をまっとうした。改めて、梅宮さんの俳優魂に合掌!