志村けん

 コメディアンの志村けんが3月29日、都内の病院で逝去した。数多くの芸能人、著名人が追悼の意を示しているが、その中に意外な人からの追悼コメントもあった。

「僕らを明るい子供に育ててくれたコントの神さまの死、突然過ぎてまだ受け入れられません。志村さん、まだ、ご冥福のお祈りすら出来ません。Soul Brother to Soul Brother」

 ミュージシャンの久保田利伸が3月30日の午後11時すぎ に発信したツイートである。

 冒頭で「意外な人から」と書いたが、それを撤回する。志村と久保田はある嗜好を通じ、つながり合う仲だった。

志村けんをブレークさせた音楽ネタ

 高校の卒業式直前の1968年2月、いかりや長介に直談判してドリフターズのボーヤになった志村。その後、メンバーの荒井注が休業という名目で74年にドリフを脱退し、志村は正式メンバーに昇格する。

 多くの人の知るところだが、メンバーに昇格してからしばらくの間、志村は舞台で笑いが取れなかった。2018年5月28日放送『ファミリーヒストリー』(NHK)で、志村の兄の美佐男さんが振り返っている。

「今風に言えばブーイングですよね。“なんだ、引っ込め”みたいな。だから、最初の2~3年はつらかった時期もありましたよね。

笑いが止まっちゃうんですから」

 転機は76年に訪れる。3月6日、新潟県民会館で行われた「少年少女合唱隊」コーナーのテーマは「民謡」だった。新潟ゆかりの曲やゲストの出身地の民謡が歌われる中、ラストに控えるのは志村。このとき、彼が歌ったのが「東村山音頭」だった。

「この曲は、たまたま志村が鼻歌で歌っていたのをいかりやが聴いて、とりあえず出してみたという偶然的なものだったが、これが大ウケ。9月にはシングルで発売され好セールスを挙げる。東村山市長から『市の知名度を上げた』ということで感謝状も贈られている。このブレークにより、ドリフターズの一員として、コメディアン・志村けんが世間に認知され、第2期ドリフの快進撃の幕開けとなる」(白夜書房「笑芸人」VOL.1から)

 つまり、彼のブレークのきっかけは音楽ネタだったのだ。音楽誌「BURRN!」(シンコーミュージック) 初代編集長・酒井康が著名人の音楽遍歴を掘り下げる対談集『虹色の音詞』(同)に志村は登場している。

「ラジオで坂本九さんや森山加代子さんを聴いてたけど 、あれが外国の曲とわかったときはショックだったねぇ(笑)。で、原曲を聴くと“ああ、なんていいんだろう”なんて思ったりして……(笑)」

 こうして、志村の趣味は日本の音楽から洋楽へ移行していく。

「最初はビートルズが好きで、その後はもっとヘヴィなハードロックに入っていったんですよ。

ディープ・パープル、レッド・ツェッペリン……」

 音楽マニアの間では有名だが、特に志村は、あるハードロックバンドをお気に入りとしていた。ユーライア・ヒープだ。

「聴きましたねえ。Look at Yourselfが気に入っていて……ユーライア・ヒープって、必ず(アルバムに)1曲は綺麗な曲が入ってますよね? July Morningとか……2、3年は気に入って、そればかり聴いていました」

 志村といえば、若い頃に音楽誌「JAM」 でアルバムレビューを担当していたことも有名である。中村とうよう、加藤和彦、近田春夫といった手だれらと共に執筆メンバーに名を連ねた志村。彼が主に担当していたのはブラックミュージックだ。志村が書く文章はいたって真面目で、音楽への 造詣の深さはレビューを読めば一目瞭然。彼の嗜好がハードロックからソウル系に移っていったきっかけは以下である。

「当時、新宿にディスコのはしりみたいなものがあって、行ってみたんですよ。そこでは生バンドが入っていて、黒人4人が演奏していてね。それが結構ショックだった。最初のステージは1コードでずっと演ってるんですよ。

始めにドラマーが出て来てずーっとリズムを刻んでいてね、10分ぐらいすると、今度はベースが登場して……(笑)。で、ギター、キーボードの順で出てくるという……。ステージも飾りっ気がないし、自分達だけで楽しんでるんですよ(笑)。1コードで演ってるだけなのに、凄くカッコ良かったね……。一つのリズムでずっと演ってることに陶酔しちゃってね。そのとき、“ソウルって凄いな!”と。その前からオーティス・レディングなんかは知ってたけど、よく聴くようになったのはその頃からかな」(『虹色の音詞』より)

「東村山音頭」のヒットで自信を深めた志村は、77年に自ら作曲・アレンジを施した「ディスコばあちゃん」を合唱コーナーでスタートさせた。以降、「ヒゲダンス」などの音楽ネタにブラック系ソウルフリークだった志村の趣味が反映されるようになる。

 加藤&志村の2人による「ヒゲダンスコーナー」がスタートしたのは79年10月から。翌80年2月にシングル「ヒゲのテーマ」が発売され、セールスは70万枚を突破。インストゥルメンタルの曲としては異例のチャート入りを果たした。この曲にはちょっとした裏話がある。

ここからは、再び「笑芸人」VOL.1の文章を引用しよう。

「『ヒゲのテーマ』は志村が作曲したのだが、実はディスコシーンでヒットしていたテディー・ペンダグラスの『DoMe』を引用(サンプリング)していたことが発覚。志村自身によれば『知らず知らずのうちに似てしまった』そうだが、以前からボーヤ仲間のすわしんじと夜な夜なディスコへ繰り出し、音に合わせて『東村山音頭』の振り付けを踊っていたという志村ならではのエピソードも残っている。この『DoMe』の権利を持っていたレコード会社は問題にするどころか、この曲を『ヒゲのテーマ』の原曲として日本盤化。しかし同様にはヒットしなかった」

 これだけ音楽の素地があるならばミュージシャンを志してもよさそうだが、その道はよぎらなかったのだろうか?

「それはなかったですね。でも、音楽はやってたんですけどね。高校の頃、コント55号へ行こうか、ドリフターズに行こうか迷ったんです。付き人やるときにね。で、コント55号は動きは好きなんだけど、音がない……それが決め手になってドリフターズに付いたんですよ」

 ちなみに、志村も日本の音楽を聴かないわけではない。

「日本語って、やっぱりロックに合わないんだろうねえ。でも、日本語を英語っぽく歌って成功したのは吉田拓郎じゃないかと思うんだよね。桑田佳祐よりも前ですね。

それと、拓郎のほうがビートルズっぽかったですね」

 志村の逝去から2日後、31日に放送された『志村でナイト』(フジテレビ系)はいつも通りに志村が作り上げたコントが次々に放送された。そして、オープニングでは番組スタッフと志村の所属事務所であるイザワオフィスからのメッセージがテロップで流された。

「志村けんは令和2年3月29日午後11時10分、新型コロナウイルスによる肺炎のため、満70歳で亡くなりました。闘病中、皆様から数多くの応援や励ましのお言葉を頂戴しており、大変感謝しております。たくさん笑って、志村けんを偲んでいただけますと幸いです」

 このとき、BGMに流れたのは吉田拓郎が歌う「ファイト!」だった。

 

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