──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
大河ドラマ「青天を衝け」公式Twitterより今回は、小栗忠順(おぐり・ただまさ)という、“知られざる偉人”についてお話したいと思います。武田真治さんの気迫ある演技でインパクト抜群の「あの人」とでも言えば、わかってもらえるのではないでしょうか。
『青天を衝け』では、フランスで開かれるパリ万国博覧会(慶応2年=1867年)に、徳川慶喜の名代として弟・昭武が向かう姿が近日中に描かれるはずです。当時、小栗は幕吏として勘定奉行を務めていましたが、初めての異国生活に不安な“昭武さま御一行”の経済問題に、彼自身の過去の海外経験を生かしたアドバイスを行いました。それだけでなく、もし手持ちの金が足りなくなったら、フリューリ=エラールという小栗の知人を頼れば用立ててもらえるようにしておく、という段取りまで付けていたそうです(『プリンス昭武の欧州紀行』山川出版社)。
昭武に随行することになった渋沢栄一は、横浜港からフランスに向けて船が出航するまでの限られた時間の中で、小栗からさまざまなアドバイスを受けました。この時、小栗はすでに渋沢の黒歴史というしかない攘夷派時代の活動を把握していたそうです。
昭和5年(1930年)、白石喜太郎という人物が病後の渋沢を訪ね、往時のことを聞き出しているのですが、白石が記した『白石喜太郎憶記』によると、幕府の官吏として会計の仕事をしていた渋沢は、自分がパリに出かけたあとの幕府を心配し、小栗にこう相談したといいます。
「其間の事(=徳川昭武はフランスに5年くらい滞在して、当地の文化風習を学ぶ予定だった)に付いて彼是(かれこれ)心配致して居りますが、最も心にかかるのは会計の事で御座います」
すると小栗は「足下(=渋沢)は五年も後のことを心配する柄でもあるまい。第一足下は討幕を企てた程の男ではないか」などと「戯談」(冗談)を言いだし、渋沢をしどろもどろにさせたのです。小栗が恐ろしいほどの情報通だったことがわかりますね。
小栗が渋沢を使って、フランスを中心とするヨーロッパの投資家に、日本の幕府が発行する外国債券600万ドルぶんを買わせようとしていたとの情報もあります。窮乏していた当時の幕府の起死回生策になるだけでなく、フランスでの滞在費の足しにもなり得るプロジェクトでしたが、残念ながら当の幕府が、一行の渡欧から約1年後に慶喜の大政奉還によって瓦解してしまったため、計画は頓挫してしまいました。
徳川昭武一行は、現代でも海外旅行につきものの“物価の違い”に悩ませられました。
もし、小栗が維新後も長生きできていれば、渋沢栄一を超える実業家になっていたかもしれません。小栗は大政奉還が行われるまでに、幕府の事業として「横須賀製鉄所」の建設を進めていますし、坂本龍馬の有名な「亀山社中」よりも実は少し早く、日本初の株式会社「兵庫商社」も設立しています。さらに欧米人がより快適に日本に長期滞在するための「築地ホテル」までプロデュースして開業させるなど、その身は幕府の官吏でありながら、確かな商才で外国人からも一目置かれる存在だったのです。渋沢にとっては大先輩にあたる人物だったともいえます。
しかし興味深いのは、こうして幕府のために働きながらも、「幕府の滅亡はどうやっても避けがたい」という事実に、小栗は早くから気づいていたことですね。彼はこんな言葉を残しています。
「(親の)病の癒(い)ゆべからざるを知りて薬(くすり)せざるは孝子の所為にあらず。国亡び、身倒るるまでは公事に鞅掌(おうしょう)するこそ、真の武士なれ」(『幕末政治家』岩波文庫)
意訳すると「親が不治の病に冒されているといって、薬を与えないのは親孝行な子供の所業とはいえない。それと同じように、国が滅び、自分の身が破滅するまでは、公(おおやけ)に尽くすことこそ、まことの武士としての行いである」といったところでしょうか。
幕府の未来が暗くても、“日本のために役立つ仕事を幕府が残した”と後に誇れるようなことを自分はしよう、と小栗は考えていました。
渋沢と徳川昭武の出国の翌年、徳川慶喜の「大政奉還」によって、幕府は260年あまりの歴史を終えることになります。小栗は「錦の御旗」を掲げた明治新政府軍に対して武力行使を辞さない構えでした。しかし、そんな小栗を慶喜は退けます。こうした小栗と慶喜の確執については、『青天~』中盤の見どころとなると思いますので、ここでは特には語らないこととします。
しかし、“慶喜推し”が今年の『青天~』は強いですから、将軍を相手にしても真正面から対立することを辞さなかった小栗という人物がどう描かれるかについては、筆者も興味津々ではありますね。
古武士のような道義心と、確かな商才を併せ持つ小栗忠順。『青天~』での登場までに、彼はどんな人生を歩んできたのでしょうか。
小栗上野介(おぐり・こうずけのすけ)の名でも知られる彼は、徳川将軍家に代々仕える旗本の家に文政10年(1827年)に生まれました。生まれも育ちも上流武士であり、若い頃から落ち着いた物腰と深い教養、頭脳明晰さが評価され、小栗は出世を重ねます。特に初期の実績としては、万延元年(1860年)、幕府による「遣米使節」の一員としてアメリカの軍艦・ポーハタン号に乗って渡米していたことが見逃せません。
小栗ら遣米使節の人々はアメリカ各地に滞在しつつ、首都・ワシントンへ向かいました。遣米使節の目的は、日米修好通商条約の批准書をアメリカ政府と交換することです。この条約の評価はさまざまですが、それはさておき日米修好通商条約を正式に締結させ、アメリカと日本の新しい関係をスタートさせた役人の一人が、小栗でした。
余談ですが、「遣米使節」と聞けば、「勝海舟も同行していたのでは?」とか、「使節団は咸臨丸に乗って渡米したのでは?」と反射的に思ってしまいがちではないでしょうか。しかし、それらの大部分が“史実誤認”というと、読者は驚かれるかもしれません。
「日本の軍艦・咸臨丸に乗って、勝海舟や福沢諭吉などの日本人が太平洋を自力で航海した」という、教科書で読んだような内容をわれわれは信じ込みがちです。しかし、これらは勝海舟の談話集『氷川清話』(講談社学術文庫)などをもとに作られた“神話”にすぎないのですね。
咸臨丸は、オランダで建造された船を幕府が買っただけの船です。また、たしかに咸臨丸は小栗忠順ら遣米使節の乗った米艦・ポーハタン号の護衛艦として、ともに太平洋を渡りましたが、運転の大半はアメリカ人クルーが行いました。
咸臨丸が「日本人初の太平洋横断」だという事実もありません。ジョン万次郎など漂流民がアメリカ船に保護され、アメリカに渡った例が咸臨丸以前にあるからです。
当時、勝海舟と小栗忠順はライバルだったといいますが、現在では知名度や人気の点で勝海舟に大きく水を開けられてしまっているのが小栗です。
たとえば、咸臨丸の「艦長」はたしかに勝海舟でした。しかし、咸臨丸は先述のとおり、遣米使節の乗った軍艦の護衛艦にすぎません。それに咸臨丸内で一番高い地位にいたのは「提督」の木村摂津守(=木村芥舟)です。そして「船長」はアメリカ人のジョン・マーサー・ブルックという人物でした。
この船長の『咸臨丸日記』によると、勝海舟はひどい下痢と船酔いでほとんど船のデッキに立つことができないまま、サンフランシスコ港に到着したことがわかります。この日記には、「艦長はまだ寝台に寝たきり」などと、出港直後から勝海舟の情けない姿が連日、描かれているのでした。長い航海に音を上げた勝が「日本にもう帰りたい!」と太平洋の真ん中でグズりだしたという証言までありますね。
しかも、勝海舟ふくむ咸臨丸の乗船者は、小栗ら遣米使節がワシントンに旅立ったのを見送ると、自分たちは比較的すぐに帰国の途についてしまっているのです。国際人のイメージが強い勝海舟ですが、そのアメリカ体験は、とても限定的なものでした。
こうして見れば、遣米使節の「スタッフ」として勝海舟がいたことは事実ですが、特に実りある仕事を彼は何もこなせていなかったことに気づくはずです。
一方、小栗が勝のように船酔いで倒れたり、嘔吐していたなどの記録はありません。
明治期以降、小栗が受けてきた低評価の理由は他にもあります。先述のとおり、新政府に対して軍事対立も辞さぬ強硬姿勢を貫き、その結果、処刑までされてしまったこと。さらに、“咸臨丸で初めて日本人が太平洋を渡ったんだ”式のウソも含むけれど、世間の注目を集める勝海舟のようなトーク技術が小栗にはなかったことも見逃せないと思われます。それらが、高い業績の持ち主とは裏腹な、彼の知名度の低さに直結している気がしますね。
誰もが「へぇ~」と思える小栗の逸話としては、彼が船で世界一周を経験した最初の日本人(のひとり)になったことでしょうか。アメリカ滞在を無事に終えた小栗らは複数の米艦を乗りつぎながら、世界を見てまわっています。
優秀さより、欠けている部分に現代人は人間味を感じてしまいがちです。そうした意味では、勝海舟と比較されると、どこまでも優等生の小栗は逆に不利なのかもしれません。
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