──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
草彅剛演じる徳川慶喜と吉沢亮演じる渋沢栄一(『青天を衝け』公式Twitterより)前回の『青天を衝け』では、パリ帰りの渋沢栄一と、駿府の寺・宝台院(現在の静岡市葵区)で謹慎生活を送る失意の徳川慶喜が2年ぶりに再会するシーンが話題となったようです。
史実によると明治元年(1868年)12月20日、渋沢は徳川昭武(民部公子)が兄・慶喜に宛てた手紙を手に、昭武が渡欧する際に幕府から用立てられた資金の精算なども行うべく、駿府に到着しました。
当時、駿府藩(明治2年以降は静岡藩に名称が変更)には、将軍家から一大名に転落した徳川宗家が入っていました。またこの時、すでに慶喜は徳川宗家の当主の座を失っており、徳川一門である田安家から養子に入った徳川亀之助という少年が新当主となっていました。慶喜は亀之助の養父という位置づけで、かろうじて徳川宗家とのつながりを保っている状態です。
昭武からの手紙を慶喜に渡してほしいと駿府藩の藩庁に託した渋沢ですが、それから4日後、慶喜からは「宝台院に来てくれ」という連絡が来ました。
ドラマでは「鳥羽伏見の戦い」以降に慶喜が下した政治的決断の数々について、納得できない渋沢が悔しがり、慶喜に意見するような言葉をおもわず吐いてしまったところ、慶喜から「昔のことを言ってもどうにもならない。パリでの民部公子(=徳川昭武)について聞きたい」と冷静に返され、渋沢が「ハッ」とするシーンが印象的でした。前将軍ともあろう方に、失礼なことを言ってしまったと渋沢が反省したようにも見える場面でした。
また、慶喜は渋沢の報告を楽しそうに聞き、「民部(公子)が無事に帰国できたのはお前のおかげだ」と礼を言って去っていきましたが、あの場面は本当にあったことのようです(渋沢の談話をまとめた『雨夜譚会談話筆記』)。
一方で、二人の間に当初は存在したわだかまりを象徴するかのような寒々しい曇天が、対話の末にいつしか冬晴れに変わっているという演出がドラマでは取られていましたが、史実では、両者の対面は人目を忍んで夜間に行われたそうです。宝台院に謹慎中の慶喜が客に会うことは本当にめったにありませんでした。その中でも例外的に渋沢を迎え入れたことを世間には知られたくなかったのでしょう。
渋沢の回顧録からは、約2年ぶりに慶喜の顔を見た途端、彼の心中に複雑な思いが湧き起こったことがわかります。
渋沢本人によると、ドラマのように慶喜の下した政治的判断に物申すような姿勢を見せたというよりも、「『鳥羽伏見の戦い』以降、あなたが適切な選択をしなかったことが私には悔やまれる。それゆえ、あなたは現在のような境遇に落ちてしまった。そして、私もこれからどうやって生きていけばよいのかもわからない……」などと、愚痴っぽいことを言ってしまっただけのようですね。
しかし、慶喜はまったく気にとめる素振りも見せず、「愚痴はやめなさい」と穏やかに言っただけでした。渋沢が現在の慶喜の苦境に同情するような言葉をかけた時も、慶喜は超然としたままで、相槌ひとつ打とうとしなかったそうです。
こうした慶喜の態度に「すごい方だ」と史実の渋沢は素直に感動しましたが、筆者には、徳川家最後の将軍となってしまった慶喜は“今後どういう態度を世間に対して取るべきか”をすでに決めていたのだろうなぁ、と思えてなりません。彼が重視したのは、いかに威厳のある態度を保ちつつ、触れられたくない幕府瓦解時の逸話に“黙秘”を貫けるかでしょう。
当時の慶喜は、旧幕臣との面会を避けるだけでなく、養子にあたる徳川亀之助とも直接会おうとはしませんでした。亀之助は養父に失礼があってはならないという観点から、江戸と駿府を何度も行き来する生活を送っていましたが、現代でいえば小学校に入ったばかりの年齢の彼が駿府に来たときでさえ、慶喜は謹慎中を理由に亀之助とは会おうとせず、亀之助がよこした使者から「三位様(=徳川亀之助)から(慶喜様の)御機嫌を伺います」と言われても、「(私のことなどどうでもいいから)三位公には機嫌はいかがか」と決まった答えを毎回返すだけという、かなり限定した付き合いしかしていません(『徳川慶喜残照』)。
亀之助の使者も渋沢と同じように「慶喜さまの謹慎は本物だ」などと素直に感心していたようですが、亀之助がいくら年若いとはいえ、養子の彼から直接、幕府瓦解時の秘話を求められたりしたら……という警戒心が慶喜にはあったのではないかという気がします。
慶喜が新政府軍から謹慎という手段をとりつつ、どうして“逃げ続けた”のか。いくら慶喜がその真意を説明しても所詮は“言い訳”にしか聞こえないでしょう。そして、その話を彼から聞いた者が「証言」として記録に残してしまう可能性を、当時の慶喜はとにかく警戒していたように筆者には思われます。
なお、宝台院での生活の中で、慶喜は謹慎だけをしていたわけではありません。慶喜は油絵の技法に詳しい中島鍬次郎(中島仰山:幕府の洋学研究教育機関・開成所の元教授)を招き、教えを受けていたそうです。油彩画は慶喜がもっとも好んだ趣味の一つですが、絵の具さえも、市販品を買うのではなく、自分の手で調合していました。それも宝台院時代にありあまる時間を使って学んだことかもしれませんね。
慶喜の寺での謹慎生活がひとまず終わったのが明治2年(1869年)のこと。渋沢が用意してくれた元・代官屋敷に慶喜は転居し、明治21年(1888年)までの約19年をそこで過ごしました。渋沢は京都から小川治兵衛という名庭師を呼んで、約4500坪ある敷地のうちの大半を占める広い庭を整えさせたそうです。
渋沢は慶喜の希望を最優先し、徳川昭武のいる水戸藩には行かず、そして東京(1868年に江戸から改称)にも帰らず、血洗島の家族を静岡(1869年に駿府から改称)に呼び寄せ、しばらく当地で活動することになりました。明治2年(1869年)には「静岡商法会所」をつくり、静岡の特産品を全国に売り出すことに短期間のうちに成功しています。
早期から大きな利益が出たことは慶喜の生活の改善にもつながり、明治2年中に、東京から正室の美賀君も静岡に呼ばれました。夫婦にとっては約7年ぶりの同居再開です。この時慶喜は35歳、美賀君は33歳でした。現在の年齢感覚では40代半ばに相当でしょうか。
静岡時代、慶喜は多くの子宝に恵まれました。しかし、美賀君は慶喜の正妻でありながら、夫が江戸から連れてきた二人の側室が妊娠・出産を毎年のように繰り返すのをじっと見ているしかありませんでした。当時の判断基準で高貴な女性が妊娠・出産が可能だとされる30歳をとうに過ぎていたからです。ドラマでは「夫・慶喜とこの先再会できても、私があの人の子を生むことはできないだろう」と美賀君がつぶやいているシーンがあったと記憶していますが、実際になかなか大変だったようですね。
子供が相次いで生まれる中、思わぬ悲劇がありました。慶喜が37歳の時に、長男と次男が次々と亡くなったのです。原因として推測されたのが、乳母が乳首にまで塗っていた白粉です。この白粉は人体に有害な鉛を主成分としていました。
このようなエピソードひとつからも、古い時代と新しい時代の狭間を生きた徳川慶喜の人生は非常に興味深いものだったといえるでしょう。
<過去記事はコチラ>
五代友厚はいかにして「おたずね者」から国際派ビジネスマンへ転身したのか 『青天を衝け』で描かれなかった「明治以前の五代」──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ...