イラスト/宮下かな子

 みなさんこんばんは、宮下かな子です。

 比較的暖かい日が続いていますが、そろそろと冬の足音が聞こえてきます。

日没時間が早くなり、5時のチャイムが鳴る頃には空が暗くなっているので、夕方意味もなく焦ってしまう今日この頃です。

 さて、先日のおうち時間、録り溜めしていた『ボクらの時代』(フジテレビ)を観ていたのですが、鈴木京香さん、高橋克己さん、江口のりこさんがゲストで出演されている回がとても印象的でした。

 江口さんは、バイトは絶対にやらないと決めていたそうですが、お金なくなるなぁというタイミングでCMに受かったり「そういう運を感じる時あるよね」と。多忙な今もそうでない昔も、心情や行動に変化はないと言い、「自分が望んでる望んでないではなく、勝手に決められてる感じがする。流れに身を任せている部分がある」と仰っていました。それに加えて鈴木さんが「今与えてもらったことをやること、ですよね。

意思を持って流れていく感じ。」と。

 以前、私がよく相談に乗って頂く大先輩にも「自分が楽しいと思うほうへ流れていきなさい」と言われたことがあるのですが、ここでもベテランの先輩方が同じ事を仰っていて、とても感慨深かったです。鈴木さんが「〝意思を持って〟流れていく」と強調していたのですが、ただ〝流れる〟ではダメなんですよね。そこも重要なことだと思いました。

 私は今、意思を持って流れているかなぁ。そんなことを考えながらこの番組を観ていて、お話の中から、鈴木京香さんはモデルからこの仕事を始められたと知り、驚きました。

女優デビューは森田芳光監督作品とのこと。森田監督次回作のオーディションがあり、もともと鈴木さんが森田監督の『それから』が好きだったため、初めてお芝居のオーディションを受けてみようと思ったそうです。あら、前回この連載で取り上げた『家族ゲーム』の森田監督のお名前がこんなところで。そう思ったタイミングで、今月6日、松田優作さんの三十三回忌のニュースが。そんな偶然が重なったタイミングだったので、今回は1985年キネマ旬報ベスト・テン第1位『それから』(1985年東映)を選びました。

『家族ゲーム』に続き森田芳光監督×松田優作さんコンビが世に放ったのは、明治の文豪、夏目漱石文学の世界。

森田監督は前回ご紹介した『家族ゲーム』が代表作だと認識していましたが、今回ご紹介する『それから』も引けを取らない名作。純文学が好きなこともあって、私個人的には『それから』のほうが好みかも。偶然のおかげで、とても良質で素敵な作品に出会えました。

〈あらすじ〉
 裕福な家庭で育ち、定職に就かず実家からのお金で気ままに生活を送る長井代助(松田優作)は、友人平岡常次郎(小林薫)の妻・三千代(藤谷美和子)への恋心を忘れられないまま、未だに結婚できずにいる。ある日3年ぶりに再会した代助と三千代は再び惹かれあって……。

 主人公代助を演じる松田優作さんの芝居の柔らかさには、毎回驚かされます。

今回の作品でも感情の起伏は滅多にないですが、静かに心を燃やす代助の揺れ幅を、繊細に表しています。『家族ゲーム』でも感じましたが、松田優作さんって心に他人を受け入れる余白をお持ちの方。どんな芝居の相手でも、それを受け入れる包容力を感じるんです。

 ヒロイン三千夜代を演じる藤谷美和子さんは、心の奥底に情熱を秘めているような容姿、黒くて大きくて真っ直ぐな瞳はまさに三千代そのもの。控えめでおっとりしていますが、花瓶の水をコップですくい飲んでしまうという非常に衝撃的なシーンもあり、そういう大胆さもある肝の据わった女性像。純粋さと、男性を翻弄する危うさも両方持ち合わせています。

 この2人、かつてお互いに惹かれ合っていましたが、気持ちを伝えられぬまま、三千代は代助の友人常次郎と結婚してしまいます。3年の年月が経過し、ある時仕事を辞めたという常次郎と三千代が東京に戻り再会した3人ですが現在、三千代が幸せではない生活を送っていることを知った代助。三千代を心配し頻繁に足を運ぶようになる代助と、そんな代助を頼り、心の内を明かしていく三千代。そのまま2人は、歯止めが効かない方向へと進んでいくのです。

 そう、今作は所謂不倫の物語。今でこそ、この時代より不倫・略奪愛といったテーマの作品は数多くありますが、しかし、それらとの大きな違いがひとつ。

肉体的触れ合いの描写が一切ないのです。これが、原作者・夏目漱石の凄みを感じるところ! 原作に沿い、この映画の中でも性的描写は一切ないどころか、指先一本たりとも触れ合うことがありません。それなのに、映画全体として甘美でエロティックな雰囲気が保たれています。

 接触がないのに、この甘い空間を作り出しているものは何か。それは、いつ2人が触れ合うかという視聴者の緊張感が、終始維持されるからではないかと思います。触れそうで触れない、もしかしたら次触れるかもしれない……この歯痒さがラストシーンまで続く。あぁ、なんと焦れったい!森田監督の手のひらでコロコロと転がされているような気分。こういったテーマを扱いながら、相手との接触がない演出の作品、そしてこのような焦らし方で視聴者を惹きつける作品はほかにないと思います。

 桜の咲く季節に降る雨の中、代助がさす1本の黒い傘のもとに白い百合を抱えた三千代が入り、百合の花を見つめる2人の回想場面が、最も2人の距離が近く感じる場面なのですが、立ち込める2人だけの甘美な空間に胸が疼きます。原作の小説でも充分、焦ったさを感じますが、映像として視覚で分かるからこそより一層効果的に楽しめる演出。

 そしてもうひとつ、2人の空間作りの役割を担っているのが〝真っ白な百合の花〟。2人きりの場面に3度用いられますが、2人のシーンには雨が多く、その湿度感の影響もあってか、百合の花の香りが沸き立つようなイメージが想起されるのです。香りまで感じさせるなんて、なんと色っぽい演出。

 白い百合の花言葉は〝純潔〟とされていて、キリスト教絵画の『受知告知』でマリアの処女性を表す等、西洋絵画のモチーフとしても使用されていますが、初期には〝天国の花〟として、生命や光の象徴という意味もあったそう。3度登場する白い百合の花。私は3つの場面で、意味合いが異なっているのではないかと思うのです。

 まず、はじめに登場するのは、先程も例にあげた回想シーン。ここでは〝純潔〟の意味。ひとつの傘に身を寄せる2人の真ん中に百合が配置され、その香りを感じる代助と三千代。お互いに想いを伝えられず、関係性を持っていないことを示しているのではないかと。

 2度目の百合の登場は、三千代が代助のもとを訪問してきて、昔お互いが惹かれ合っていた頃の話をするシーン。ここでは花本来の持つ、セクシャルな意味合いを示しているよう。この場面は特に焦ったさが際立つ場面でもあるのですが、「あなた、この花お嫌い?」と、机に花束を置こうとする三千代から、突然代助は奪い取り、もと生けてあった花を庭先へ放ると、百合が包まれていた白い包装紙を剥ぎ取り、花だけをその花瓶に浮かばせます。これが何だか、花そのものを三千代として扱っているようにも見え、この場面で2人の心の隙間が埋められていくように感じるのです。

 そして3つめは、2人が長年の想いを吐露し、共に生きることを決意する長回しシーン。ここでは〝天国の花〟として、2人にとっての光としての意味合いかと。向き合って座る2人の間に飾られる白い百合の花、これは代助が買ってきたもの。この先苦労するであろう2人の決断ですが、ずっと罰を受けていると話す代助と、自分に復讐するための常次郎と結婚したと話す三千代。そう語る2人にとって、この決断は光なのではないかと。

 2人の想いを繋ぐ白い百合の花。触れ合うシーンがないからこそ、この花を使って空間を作り出し、そして花本来の持つ異なる意味合いが、2人の関係性を示す役割になっているのではないでしょうか。

 このように、役者によっての表現をあえて削ぎ落とし、美術でその感情を表しているのが今作の見どころ。百合のほかにも、照明の演出のこだわり等工夫はさまざま。障子にうつる光と影、その色合い。雨に濡れたアスファルトに反射する街灯の光。背中の輪郭が光輪に包まれているような演出。帽子を被った人影だけ映され、声のみ聴こえてくる演出等々。視覚的に美しいと感じるアート性も勿論ありつつ、加えてそのカットにうつる役の心理描写にもぴたりと当てはまる見せ方に惚れ惚れさせられます。

 役者の静の芝居と、役の感情に寄り添った美術演出で魅せた『それから』。役者が自然体に近いからこそ、真っ直ぐに想いを伝えられない焦ったさや曖昧な感情が現実感を持って感情移入でき、その役に寄り添って緻密に作られた小道具や照明で作り出された世界観は、溜息が出るほどの美しい。電車の中で花火をする謎の演出であったり、万華鏡のように何重に重なって見える主人公の姿であったり、森田監督ワールドもしっかりと残しているのも見逃せません。是非この出会いを機に、ご覧ください。