前回より本連載では、1994~2000年頃の作品を中心に、Mr.Childrenのサウンドやアレンジ面、制作プロセス等に焦点を当てて語っている。第2回となる本稿では、『深海』『BOLERO』の制作から一時的な活動休止に至るまでの1995~1997年を軸に、サウンドのさらなる変化を追いながら、この時期の楽曲が持つ“特別な魅力”の謎を解き明かしていきたい。
<第1回はコチラ>Mr.Childrenが『Atomic Heart』で見せた“オルタナティヴ”への助走 2022年にメジャーデビュー30周年を迎えるMr.Children。四半世紀以上に渡り国内ポップ・ミュージックシーンのトップランナーであり続ける彼らについて、この連載...


『深海』 “ヴィンテージ・サウンド”が映す、あるがままの姿
1994年、「innocent world」「Tomorrow never knows」とメガヒットを立て続けに放ったMr.Children。プロデューサー・小林武史の発案で始まった、ホテルのスイート・ルームを貸し切っての“ヒルトン・レコーディング”は翌年も続けられた。引き続き大ヒットを連発するさなかの1995年10月、桜井和寿はホテルで20曲あまりを集中的に制作しており、これらは翌年以降のアルバム『深海』(‘96)『BOLERO』(‘97)へと繋がっていく。
「名もなき詩」(‘96)を除いて、『深海』のレコーディングは、『Versus』(‘93)の一部楽曲でも使用されたニューヨークのウォーター・フロント・スタジオで行われている。この場所はアナログ/ヴィンテージ機材を愛する名物エンジニア、ヘンリー・ハーシュが切り盛りしており、レニー・クラヴィッツの初期作が録音された地として名高い。
60~70年代のソウル・ミュージックやジョン・レノンのソロ作から影響を受けたレニー・クラヴィッツのデビュー作『レット・ラヴ・ルール』(‘89)は、レコード会社との契約が決まる以前、レニーとヘンリーが意気投合してDIY的に制作された。シンプルながら楽器本来の“リアル”な魅力がはっきりと表れたそのサウンドは、デジタルリバーブを駆使した“ゴージャス”な80年代流の音作りとは対極にあるもので、70年代以前のサウンドが再注目される契機となった作品と目されている。
この場所で真っ先に録音されたのが「花 -Mémento-Mori-」であった。それぞれの楽器の音が太く逞しく録れないと成立しない、音数を選び抜いたアレンジが見事にハマった名録音である。
また、「ニューヨークでアナログ機材で録音する」という発想のきっかけになったという「虜」は、ブルースロックにR&B/ゴスペルの要素が入り混じった、彼らの長いキャリアでも屈指と言えるほどルーツ・ミュージックに根ざした表現が楽しめる。ハードな出だしの一音や、一気に左右のサラウンドを広げるような後半部のコーラス然り、音のダイナミズムや配置が絶妙で、非の打ち所がない仕上がりだ。
小林は当時の音作りについて「コンプをパツパツにかけて音圧を上げるのではなく、ひとつひとつの楽器のダイナミズムをしっかり捉えること、それこそがリアルだと思ってやっていた」という言葉を残しており、具体例として、「シーラカンス」で桜井の弾くレスポール・ギターをあえて小さいアンプで鳴らして録ったことを挙げている。こうしたサウンドを気に入った小林は、のちにYEN TOWN BAND『MONTAGE』(‘96)も同スタジオで制作している。
先述の通り「名もなき詩」だけは東京での録音だが、アルバムでは前後にインタールードや弾き語り調の「So Let’s Get Truth」が巧妙に配されていることもあり、違和感はほとんどない。また、録音に際しては、のちの『重力と呼吸』(‘18)制作時にも再来する「バンドの4人が見えてくる音にしたい」という方向性をメンバー全員が共有していたという。同曲を東京で録音したあと、ニューヨークでのレコーディングでもその思いが大切にされていたことは、アルバムの仕上がりを聴けば一目瞭然だ。
例えば「マシンガンをぶっ放せ」について、ギターの田原健一は「各楽器にしっかりとした配役があり、どの楽器も端役にはならないアレンジが成立している」という言葉を残している。『深海』はメンバー全員の魅力を余すことなく伝えてくれる、ロックバンドとして最も理想的なサウンドを持ったアルバムなのだ。

もちろん、『深海』の魅力はサウンド面だけではない。本作はアルバム全体でひとつのテーマを形成するトータル・アルバム(コンセプト・アルバム)を目指したものであり、当時のライブでもピンク・フロイドの『狂気』のパフォーマンスさながらに、アルバムの丸々全曲をそのままの曲順で演奏していた。
『深海』は制作時から明確なビジョンをもって生み出された。しかし、小林は『原子心母』(‘70)あたりまでのピンク・フロイドをイメージしていた一方、桜井は井上陽水『断絶』(‘72)を思い描いていたという。ピンク・フロイドと陽水では一見大きな乖離があるように見えるが、日本のUS流サイケデリック・ロックの草分け的存在であるザ・モップス出身の星勝が主導した『断絶』のアーシー/ブルージーなバンドサウンドは、デヴィッド・ギルモア加入後のピンク・フロイドに確実に通ずる部分がある。
有名な話だが、『深海』の制作開始以前から、アナログ・サウンドを追求したヘヴィな作品(=『深海』)の後に、最新テクノロジーを活かしたポップなアルバム(=『BOLERO』)を作る計画になっていた。しかし桜井曰く、「当時の心情と音楽性がリンクしすぎて」、『BOLERO』制作中も思いのほか『深海』を引きずったところがあったという。
当時のツアー『regress or progress ’96-’97 tour』で『深海』全曲演奏の次に演奏されていたのが、『BOLERO』収録の「Brandnew my lover」だ。インダストリアル・ロックを思わせる音像にFワードまで飛び出す過激な歌詞が組み合わさった、ミスチル史上でもっとも“ハード”な楽曲の一つだろう。それでいて、Aメロ・Bメロではエフェクトをかけたギターやビブラフォンなど浮遊感のある楽器を用い、サビとの静・動のメリハリをはっきりとつけているのも、ニルヴァーナ「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」(‘91)をはじめとする90年代オルタナティヴ・ロックの王道を行く構造である。
メンバーがカプセルに入ったり、桜井が狭い通路の中で悩ましげに歌う象徴的なMVは、ライブの演出でも引用されている。『深海』の全曲演奏を終えた桜井が箱のようなものの中から出られずもがく……いう内容であり、当時のツアーコンセプト「OUT OF DEEP SEA(深海からの脱出)」がいかにバンドや桜井にとって困難に満ちたものであったかを分かりやすく示している。
「Brandnew my lover」に続いてツアーで演奏されたのが、『BOLERO』のもうひとつのハード・ナンバー「タイムマシーンに乗って」である。「バカ・ロック」という仮タイトルがついていたという、ラウドでありながらどこかあっけらかんとした突き抜け感もある本曲は、まさに『深海』と『BOLERO』を繋ぐような存在だ。前面に出た鈴木のドラムを軸にしつつ、トランペット・トロンボーンの二管や跳ねるピアノが散りばめられた比較的カラフルなアレンジも『深海』との差別化要素に思える。
ツアー本編は徐々にどん底から浮上していくような「ALIVE」を経て、活動休止直前にリリースされたシングル「Everything(It’s you)」で終わる構成だった。
この曲にデビューアルバム『EVERYTHING』と同じタイトルを冠したことについて、桜井は「一周回って初期を思い出せた楽曲」と述べている。当時はMr.Childrenの解散説が囁かれていたというが、自身の「今」や「旅路の果て」をつぶさに歌ったこの曲は、タイトルも相まって、確かにある種の“完結”の印象を与えてもおかしくないように思える。

先ほど「当時の心情と音楽性がリンクしすぎていた」という桜井の『深海』に関するコメントを引用したが、この時期の彼は、社会現象的な人気ぶりとそれに伴う多忙、自身のプライベートの問題もあり、精神的に非常に疲弊していたという。『深海』制作当時を振り返ったインタビューでは、「いつも『死にたい、死にたい』という感じだった」と語り、「要は、すごくピュアなラヴソングはもう書けない」「『そんなの嘘、不倫してんじゃん!』とつっこまれる前に、このぐちゃぐちゃを吐き出してやろう」といった思いを秘めていたことを明らかにしている。
『Atomic Heart』制作時に桜井が目指した通り、Mr.ChildrenはU2さながらに「変化することでより多くのものを巻き込んで」いき、バンドを「もっと“巨大な怪獣”」にすることに完全に成功した。そして、自身を取り巻く環境、ひいては人生そのものが大きく揺れ動いていくなか、桜井は「innocent world」以降で掴んだ「内面を作品に投影する・晒す」スタイルを加速させていく。先述のツアーでの演出然り、どこまでが作品で、どこからが彼そのものかという境界が限りなく曖昧に思えてくるそのあり方は、90年代以降のオルタナティヴ・ロックやヒップホップが体現した「リアルであること」の美学を図らずしも踏襲していたようにも映る。
あくまで筆者の観測範囲での話だが、『深海』を”オルタナティヴ・ロック”的なアルバムだとする感想は、リアルタイム世代・後追い世代を問わずしばしば散見される。しかし、ここまでお付き合い頂いた読者の方はご存知の通り、『深海』制作時のリファレンスに、同時代のオルタナティヴ・ロック周辺の音楽家・バンドは特段見受けられない。かつてレニー・クラヴィッツが行ったように60~70年代の音楽作品を(それこそ初期の井上陽水を含め)参照した果てに、彼らは時代のムードと共振する“オルタナティヴな”聴取体験をもたらすトータルアルバムを生み出した。この道筋のオリジナリティと達成度、何より日本随一のヒットメイカーの立場からこれに挑んだ事実は、いくら評価しても足りないほどの凄みがある。
天災や凶悪事件が相次ぎ、不況の実感も人々に広がり始め、社会の閉塞感・厭世観が加速していった90年代半ば以降、桜井自身のパーソナルな葛藤・苦悩を、歌詞のみならずサウンド~アルバムのコンセプトにまで素直に投影した作品たちは、次々と年間チャート上位レベルのメガヒットを記録し、“みんな”の歌になっていった。
そして、ライブで『深海』全曲を演奏後に箱の中に閉じ込められるパフォーマンスを見せた桜井は、「名もなき詩」の「自分らしさの檻の中でもがいているなら/僕だってそうなんだ」という一節の通り、決して“みんな”を置き去りにはしなかった。そうした誠実さは、2000年代以降にバンドが“蘇生”していくプロセスにも確実に繋がっていったはずだ。
次回は1997~2000年の『DISCOVERY』『Q』の2作、およびそこからバンドが自らの立ち位置を見つめ直し、現在の活動に至るまでの流れについて記していきたい。
>> 続きはこちらMr.Children『DISCOVERY』バンドの成熟と“もっと大きな”ミスチル像の発見 本連載では、ここ2回にわたって、1994年以降のMr.Children作品をサウンドやアレンジ面、制作プロセス等の観点から語ってきた。「Mr.Children編」第3...


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本稿におけるMr.Childrenのレアな制作エピソードは小貫信昭氏の『Mr.Children 道標の歌』(水鈴社)を参考にさせていただいた。
本稿で紹介しきれない楽曲を含め、Mr.Childrenのオルタナティヴ・ロック方面の楽曲をまとめたプレイリストをSpotifyに作成したので、ぜひ新たなMr.Childrenの魅力の発見にご活用いただきたい。
<本連載の過去記事はコチラ>
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