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上総広常の謎めいた死を『鎌倉殿』はどのように描くか 疑惑の人...の画像はこちら >>
上総広常(佐藤浩市)|ドラマ公式サイトより

 『鎌倉殿の13人』第14回は、頼朝と義経の“最後の会話”など、シリアスなシーンが目立ちました。また、双六の場面がやけに目に付きましたが、これは一種の「フラグ」であり、上総広常が双六に興じていた最中に梶原景時から暗殺されるというエピソードが控えていることの暗示でしょうね。

 今回はその上総広常の謎すぎる死についてお話しようと思います。

 実は、上総広常の暗殺事件について『吾妻鏡』には記述らしい記述がありません。鎌倉幕府の公式史である『吾妻鏡』は、この大事件に不穏な沈黙を貫いているのです。上総の暗殺事件は寿永2年(1183年)の末頃に起きたと推定するしかないのですが、『吾妻鏡』には事件の記述がないだけでなく、この年(寿永2年)の記載が丸ごと「欠記」、つまり完全に抜けてしまっており、異様と言うほかありません。よほど沈黙しておきたい、語りたくないことが、源頼朝とその周辺には起きていたのでしょう。

 ドラマでは、「木曽義仲と源頼朝の“身内争い”に巻き込まないでほしい」との不満が坂東武者たちの間で高まり、それが大規模なクーデターに発展しそう……というとき、北条義時の頼みによって、上総広常も坂東武者側に加わるところで第14回は終わりました。

ただ、こうした描写も、上総の死の前後の記述が『吾妻鏡』には欠けてしまっているため、“史実”をベースとしたものとはいえないでしょう。

 しかし、千葉常胤(岡本信人さん)が一同の中心となって、千葉一族の支流である三浦家の面々にも(反・頼朝)クーデター参加を熱心に働きかけていたシーンは、筆者には興味深く思われました。千葉常胤はこれまで穏健派、常識派の坂東武者の重鎮として描かれてきていたので、余計に「あれ?」と思われたのです。

 ドラマでどのように描かれるかはわかりませんが、史実における上総広常の暗殺事件の真相は、千葉常胤によって仕組まれた“追い落とし”ではないか……というのが筆者の推論です。

 上総家と千葉家は、同じ先祖を持つ桓武平氏の一族であり、歴史的には「両総平氏」と呼ばれてきました。現在の千葉県の房総半島南部を支配する上総家と、北部を支配する千葉家です。

上総家のほうが立場は上位でしたが、彼らが千葉家に対して自らの政治的優位を主張した記録は、少なくとも源頼朝時代にはありません。しかし、両者には当時すでに大きな格差がありました。それをほのめかすのが、源頼朝の挙兵に協力すると決めた時、千葉常胤(とその息子たち)の軍勢が300騎程度だったのに対し、上総広常は(最大)2万騎だったという諸本の中の記述です。

 また、上総広常が暗殺された後、上総家の所領は千葉一族の手中に収まり、名目ともに房総半島の長になったのは千葉常胤でした。上総の暗殺によって誰がもっともトクをしたかを考えると、すべては一目瞭然です。

 以下はあくまで筆者による推論ですが、このようなことがあったのではないかと考えます。

 「ほかの源氏一族を蹴散らして源氏の棟梁となるべく、京都に攻め上りたい」という野望を叶えたい源頼朝は、有力者である千葉家とその一族から、協力の代わりに“経済的な優遇”を迫られた。しかし、坂東武士の喜ぶ最大の恩賞である所領の分配は、千葉家の望むほどの規模は難しく、(千葉家にとっては“目の上のたんこぶ”であった)上総家の土地をあてがうという解決策が講じられた。そのため、上総家の当主である上総広常は「謀反の疑い」という”無実の重罪”を着せられ、謀殺されることになった。それを坂東武者のリーダーたるべき源頼朝は黙認していた……というあたりではないでしょうか。

 このようなことがあったとすれば、源頼朝(とその最側近たち……たとえば北条家)にとっては、自身の指導力のなさを露呈させるあまりに恥ずかしい出来事ですから、『吾妻鏡』で完全沈黙となったのも納得いくでしょう。

 『愚管抄』によると、大勢の御家人が集う中、上総広常と梶原景時が双六をしていたところ突然、梶原が上総を切りつけ、殺してしまったとあります。

梶原景時のブラックなイメージを決定づける逸話ではありますが、千葉家が裏で手を引いていたのだとしたら、梶原は(恐らくは頼朝から)汚れ仕事を押し付けられただけなのでは?とも感じてしまう筆者です。梶原は結局、頼朝という庇護者の死後、この手の多くの汚れ仕事について責任を取らされることになり、北条家の手で暗殺されてしまうのですが、梶原が上総を殺したのもそうした汚れ仕事のひとつだったと思われます。

上総広常の謎めいた死を『鎌倉殿』はどのように描くか 疑惑の人物と「直筆の願文」
梶原景時(中村獅童)|ドラマ公式サイトより

 また、上総広常の死から約1カ月後、寿永3年(1184年)正月17日の『吾妻鏡』の記述にかなり不自然な点が見られることも見逃せません。「上総一宮(=上総一ノ宮、玊前神社)」から、上総広常本人が奉納した「小桜皮威(こざくらかわおどし)の鎧」が、鎌倉の頼朝のもとに「なぜか」届けられることになったのです。『吾妻鏡』によると、この月の8日、上総一ノ宮の神主たちが、唐突に上総広常が存命だった頃に奉納した鎧がうちにはあると「なぜか」言い出したことをきっかけに、その実物を頼朝が「なぜか」見たがったので、鎌倉に届けられることになった……と説明されてはいますが、非常に唐突で、おかしな印象がありますよね。さらに、その鎧の中から頼朝の武功を祈願した上総直筆の願文が見つかったとしているのですが、これもどこか不自然な話です。

 上総の直筆といえば、ドラマの視聴者には、上総が密かに書の稽古をしていることを北条義時に明かしたシーンが思い出されたりもするでしょうが(そして、ドラマではあのシーンを鎧の中から直筆の願文が見つかる場面の伏線とするつもりなのでしょうが)、『吾妻鏡』によると、願文の日付は「治承六年(=1182年)七月吉日」となっていました。

 後年、『吾妻鏡』の編纂時にミスしてしまっただけの可能性もありますが、この「治承六年」にはかなり恐ろしい事実が隠れているような気もします。というのも、西暦1177年に始まった治承という年号は5年で終わるのです。1182年の夏頃には寿永元年という新しい年号が始まっています。

 『吾妻鏡』の注釈などには、「寿永」は平家ゆかりの安徳天皇にまつわる年号なので、反・平家の立場にある上総広常はあえて使わず、「治承」のままにしていたのでは、とする指摘もあるのですが、その『吾妻鏡』の中では普通に「寿永」が採用されていますからね。やはり、なにか不自然なものを感じてしまうのです。

 ドラマで描かれてきた上総広常は「オレは難しいことはよくわからねぇからよ」というキャラクターですから、元号をミスしてもおかしくないような人物像かもしれません。しかし、史実の上総広常は大豪族であり、大富豪であり、当時の教養水準は財産と比例することが一般的だと考えると、「年号を間違えている」=「上総本人が書いたものとはいえない」ことが推察できるのです。

 そもそも、千葉常胤とは異なり、上総広常が頼朝軍に合流した時期はかなり遅かったという事実から考えても、上総の参陣は正義によるものというより、損得勘定の末の決断であったことが考えられます。身分が高いはずの頼朝を、自分の同輩のように扱って小馬鹿にしたエピソードが目立つ上総が、平家打倒という大義名分に燃えていた人物だとはとても思えません。

  いずれにせよ、この願文が上総本人が書いたものではなかったとすれば、重要な年号を誤るというありえないミスが起きたのは、暗殺した上総を“許す”ための適当な口実を、頼朝とその周辺がとにかく急いで用意する必要があったからではないでしょうか。上総からの“呪い”を恐れた頼朝たちは、上総に無実の罪を着せたことだけでも公衆の面前で認め、上総の名誉回復を早急に行わねば……と考えたのでしょう。

 上総が鎧を上総一ノ宮に奉納していた事実を、頼朝サイドが突き止めたところまではよかったのでしょう。しかし、鎧の中に忍ばせる願文の作成で大きなミスが発生してしまったのではないでしょうか。十分にチェックをする時間がないほど、急ぎで代筆させられてしまったのか。あるいは、頼朝サイドと「代筆者」の間のやり取りが足らず、上総広常とはどういう人物だったのかというヒアリングが十分に行えなかった結果、「平家ゆかりの新元号など絶対に使わない!」という硬派な熱血武将のキャラクターとされてしまい、かえって不自然になってしまったのか。そのどちらかが“元号ミス事件”の真相ではないか、と筆者は思うのです。

 神仏に奉納する願文は、どんな身分の高い人物でも直筆ですし、本来なら本人や周囲が書き間違えなどのミスがないかを目を皿のようにしてチェックした後に納めるべきものです。仮に史実の上総が、ドラマで描かれるようにワイルドな人物であったとしても、部下によるチェックが行われないはずがありません。つまり年号を間違えた文書になってしまったのは、「上総ではない別の誰かが、上総が書いたように見せかける文章をとにかくすぐに仕上げるよう急かされたから」というのがもっとも筋の通る説明でしょう。

 しかも、頼朝らにとってきわめて不都合なことに、皆の前で願文が発見されるという“演出”を取ったがゆえ、その願文の年号ミスを『吾妻鏡』はそのまま記載せざるをえなくなったのでは……ということも推察されるのです。悪いことはできないなぁ、などとも感じてしまいますね。そもそも、願文の日付は上総が暗殺されたと考えられる1183年末から数えて1年以上も前であり、1183年末の上総に謀反の心がなかったという“証拠”となりうるのだろうか?という疑問も浮かびます。

 このように、上総の暗殺とそれに対し、公衆の面前での頼朝の謝罪と後悔という“パフォーマンス”のすべてに、罪の意識を軽減したかったという頼朝(とその側近)の弱気な姿勢が見て取れる気がする筆者でした。こういうところが、後に暗殺とも深読みできるような不審死を遂げ、『吾妻鏡』にも記述が省かれてしまった頼朝の末路を暗示してしまっているとも思われてならないのです。頼朝では武士たちの忠誠心を保つことはできなかったということでしょう。

 ドラマ第15回以降では上総暗殺に千葉家がどう絡んでいくか、そして頼朝の立場の変化を三谷氏がどう描いていくかを興味深く見守りたいと思います。

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