6月24日に放送された『激レアさんを連れてきた。 若林VS強レア大先輩2時間SP』(テレビ朝日系)は、タイトルのとおり特別バージョン。中尾ミエ、研ナオコ、平野レミの3人を迎え、それぞれを深掘りする内容だった。
#激レアさん ゴールデン2時間SP ✨
1人目は…真の芸能界最強#中尾ミエ さんが降臨⚡️
極貧少女時代に米軍基地に侵入!?
デビュー直後にお客さんと〇〇
驚愕の最強伝説が止まらない!客員研究員は#NEWS #加藤シゲアキ さん#CreepyNuts #DJ松永 さん#近藤春菜 さん!
24日(金)よる8時! pic.twitter.com/8b2HRzr8ma
— 激レアさんを連れてきた。@geki_rare) June 22, 2022
まさに、昭和芸能史の一部を紹介するような特番だ。知られざる素人を深掘りするいつもの『激レアさん』をイメージすると物足りないかもしれないが、『1周回って知らない話』(日本テレビ系)の温故知新バージョンだと思って見ると、資料的価値のある有意義なプログラムだった。
いじめられる和田アキ子を救った中尾ミエ。相手は“天敵”の…
まず最初に登場したのは、中尾ミエである。
1962年、弱冠16歳でリリースしたデビュー曲「可愛いベイビー」がいきなりミリオンヒットとなった中尾。その後、持ち前の明るいキャラクターがウケた彼女はバラエティへ進出した。そこで武器になったのは、軽快な毒舌である。例えば、ムッシュかまやつに「あなた、昔歌手だったんですよね? ほとんどヒット曲ありませんでしたけど」と言い放ったり。中尾以外にも加賀まりこなど、この手の毒舌タレントが昭和には数多くいた。しかし、各ジャンルにお笑い芸人が進出した結果、いつしか激減した印象だ。
そんな中尾のことを、番組は“真の芸能界最強の人”と称している。最強の根拠として紹介されたのは、「いじめられていた和田アキ子事件」だ。司会進行の弘中綾香アナウンサーは、事の顛末を以下のように説明した。
「和田さんの話によりますと、楽屋が皆さん一緒なんですって。そのときに、背が大きいから和田さんのことを『男がいるから私たち着替えられないわね』と陰口を言う先輩や同僚がいたということなんです。そんな和田さんの姿を目の当たりにしたミエさんは、周りにハッキリと聞こえる音量で和田さんにこんなふうに声を掛けました。『相手にしなくていいのよ、あいつらバカなんだから』。この一言によりまして、悪口を言っていた人は虎に睨まれた鹿くらい静かになったということです」(弘中アナ)
芸能界の定説では、この場で和田をいじめていたのは梓みちよと小川知子の2人だと囁かれている。そして、いじめからかばってくれた中尾といしだあゆみに和田は今も感謝し続けているそうだ。
ただ、番組での解説には一部誤認がある。「悪口を言っていた人は虎に睨まれた鹿くらい静かになった」と説明されたが、それはありえない。中尾と梓は取っ組み合いのケンカをするほどバチバチの間柄。その不可侵な関係は、2020年の梓の死去まで続いたと言われる。お互いが引かず、好戦的だったのだ。
ちなみに、「可愛いベイビー」でブレイクした中尾に対し、梓には「こんにちは赤ちゃん」という持ち歌がある。「可愛いベイビー」の「ベイビー」には「赤ちゃん」ではなく「愛しい人」というニュアンスが含まれているが、どちらにしろ混同されることの多い両曲だ。いろいろな意味で因縁の深い2人だったのだ。梓が亡くなった際、中尾は以下のようなコメントを発表している。
「私の天敵と言われていたみちよちゃんですが、いなくなるとやはり寂しいですね。一時期を(渡辺プロダクションの)渡辺晋社長のお宅で一緒に生活していた仲です。ご冥福をお祈り致します」
その他にも、沢田研二がコンサートをドタキャンした際(2018年)には、「もっと痩せろ」とカメラ越しにジュリーを叱りつけた話や、次の公演に間に合うよう無理やり新幹線を止めたというテリーマンばりのエピソードも紹介された中尾。彼女が頭の上がらない相手といえば、思い浮かぶのは故・渡辺晋社長くらいである。
続いて登場したのは、研ナオコだ。
志村けん逝去で放送された追悼番組ではフリートークの弱いドリフのメンバーをフォローしたり、YouTubeやInstagramが若者の間で話題になるなど、今もバラエティのイメージが強い彼女。そんな研のことを、番組は“本当の本当にNG無しの人”と称している。
1971年、17歳の頃に「大都会のやさぐれ女」で歌手デビューを果たした研。これが、恐るべき歌唱力なのだ。とても10代とは思えない歌声。デビュー5年後には、中島みゆき作曲「LA-LA-LA」で『NHK紅白歌合戦』初出場も果たした。実は、中島からの提供曲が研には多く、名曲「時代」は本家である中島より研のバージョンのほうが良かったりする。こんなケースが彼女には多く、桑田佳祐から提供された「夏をあきらめて」はサザンオールスターズ版より研のバージョンのほうがブルース臭があり、より一層心に沁みる仕上がりだ。
そんな研も、下積み時代は壮絶だった。例えば、雪国のスナックに飛び込みで入り、「歌わせてもらえませんか」と直訴させられる営業。これを、事務所は10代の少女にやらせていたのだ。というか、もうこれは営業ではなく流しである。さらに、2ndシングル「屋根の上の子守唄」のキャンペーンでは、なぜかボートレースまでさせられた研。
イカれたプロモーションだ。操縦を間違えたら、死亡事故さえ起こりかねない競技なのだから。『さんまの名探偵』じゃないんだから。そもそも、歌手がボートに乗る必要とは? 番組では船を操縦する研の写真が紹介されたが、船上の彼女はゴリゴリの前傾姿勢。研は研で、勝つ気まんまんだった。ここまでくると、“女・横山やすし”だ。
研 「私を最初に拾ってくれた会社の社長さんに連れて行かれ、『ここで今日は取材をするから』って言われて。でも、(ボートに)乗ったことないんですよ」
若林「いや、そりゃそうですよ! めっちゃ危ないって聞きますよ、風で煽られたりしたら」
研 「う~ん、でもやってみないとね」
歌とまったく関係ない宣伝活動を課せられた研。ちなみに当時、彼女が所属していた事務所は研音である(現在は田辺エージェンシーに所属)。天海祐希や唐沢寿明の先輩として、横山やすしばりにボートに乗せられていた事実。あまりにも、今の研音とはイメージが違う。まさに、昭和の芸能界だ。
そんな彼女に、ついにターニングポイントが訪れた。1973年、愛川欽也と共演した「ミノルタカメラ」CMだ。こんな内容だった。
愛川「最近、僕はミノルタ一眼レフに凝っている。しかも、美人しか撮らん」
研 「ハッハッハッハッハッハッハ」
愛川「(研にカメラを向けて)だから、シャッターは押さない!」
今やったらクレーム殺到、大炎上必至な内容だ。しかし、研は「『美人しか撮らない』『だから、シャッターは押さない』って言われたのが、物凄いおかしくて(笑)」と、ケラケラ笑ってみせるのだ。
現代は、女芸人でさえ容姿いじりを嫌がる風潮。なのに、歌手でこの扱いに抵抗を感じていないのは隔世の感である。ただ、若い頃の研をよく見ると、ツィッギーっぽいお洒落なルックスであることにも気付く。今で言うサブカル系の、フォトジェニックな“映える”ビジュアルをしていたのだ。加えて、愛嬌も十分。赤塚不二夫が研ナオコのファンクラブを作ると、瞬く間に会員数が100人を超えたのは知られざるエピソードだ。
そして、研ナオコといえば「追っかけファンを寛大に受け入れすぎてマネージャーにしちゃった」が、最出色の逸話である。
「だって、関西からわざわざ銀行辞めて来ちゃったからねえ(笑)」(研)
「追っかけ」と柔らかく表現しているが、ストーカーである。自分につきまとうストーカーを自宅へ招き入れ、有能なマネージャーに仕立て上げた。これこそ、研ナオコ伝説で最もヤバいエピソードだ。振り返ると、昭和の時代はタレントの住所をみんな意外と把握していた。だからこそ、生まれた伝説か。しみじみと、神田うののようにスタッフに裏切られなくてよかった。自分につきまとう執着心があるからこそ、そのマネージャー(ストーカー)は一蓮托生で行動してくれたのかもしれない。
最後に登場したのは、平野レミである。
彼女は「料理愛好家」なる肩書きがお馴染みだが、元々はシャンソン歌手だった。しかし、いざ歌手活動を始めると思うような曲を歌わせてもらえず、用意されるのはゴリゴリの歌謡曲ばかりであった(余談だが、LP『およげ!たいやきくん』に収録の「雨もり寺のおしょうさん」は平野による歌唱)。
歌手を引退した彼女はその後、ラジオパーソナリティに転身。TBSアナウンサー時代の久米宏と番組を持つことになった。平野は久米をかなり困らせていたらしい。
「(一般の)おじさんやおばさんがいっぱい来るでしょ? スーパーの前で『おじさんさあ、おまんじゅう好き?』って言うの。でも、『おまん』まで言うと久米さんが『やめろ!』って言って蹴とばすのよ。『何よ、“おまんじゅう”って言ってんでしょ、私は!』って」(平野)
彼女の下ネタ好きは有名である。まるで、松本明子のようなスレスレのエピソードを嬉々として話す平野。実は久米の口からも、平野に手を焼いた過去が明かされていた。以下は、久米の自叙伝『久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった』(世界文化社)から。
「(平野は)放送禁止用語なんて頭の片隅にもなく、思ったら口にする。世の中にこんな人がいるのかと思ったほど彼女との生放送はコワかった。
番組スポンサーは食品会社だった。クイズに当たった人には、その会社の缶詰をプレゼントするのだが、彼女が無邪気に聞いてきた。
『久米さん、この缶詰の中身にベトコンの肉が入ってるってホント~?』
当時はベトナム戦争のまっただなか。米軍に徹底抗戦したベトナム・ゲリラ兵の肉が缶詰に……。生放送である。このときは思わず持っていたマイクで彼女の頭を叩いて、足を蹴とばして、とりあえず黙らせるほかなかった」
そんな久米を介して出会ったイラストレーターの和田誠と、平野は1972年に結婚。出会って10日目で、和田からプロポーズされたそうだ。そして2019年、平野と長年連れ添った和田は逝去した。『徹子の部屋』(テレビ朝日系)で和田の話題になると、今でも平野は涙ぐむ。一時期は鬱になりかけたとも聞く。そんな彼女が立ち直れたきっかけは、娘たちだ。昨年3月9日、「ウートピ」(https://wotopi.jp/archives/111316)が配信したインタビューで平野は語っている。
「和田さんが死んじゃって、心の支えがなくなっちゃって……。和田さんとすごい仲良しだった黒柳徹子さんに、『私はどうしたらいいんでしょう?』って相談したら、『和田さんに愛されたこと、レミちゃんが和田さんを愛したことをずっと思ってればいいじゃないの』って言ってくれたの。でもやっぱり私、思い出がつかめなくて……。
(中略)そのあと、息子(「TRICERATOPS」の和田唱)と(上野)樹里ちゃんと一緒にご飯を食べに行ったの。『思い出を大事にしろって言ったって、つかむものがなくて悲しいし、本当に心の支えがない』ってつぶやいたら、樹里ちゃんが、『唱さん、手を出して。ほら、レミさんとしっかり握って』って。それで、息子と手を握らされちゃったの。
(中略)そのときに、ちゃんとつかめる思い出があったんだと思ってうれしくなっちゃって。とっても自信が出てきて、明るい気持ちになれたの。和田さんはいなくなっちゃったけど、息子の半分は夫だし、その手が私の手をグッと握ってくれたときに、今まで落ち着かない気持ちだったのが、スッと取れちゃったの、心のつかえがストンと取れた感じかな~樹里ちゃん、良いこと言ってくれたな~と思って」
平野は、上野樹里に心の底から感謝しているそうだ。
『激レアさん』芸能人特番は当たりはずれが大きく、残念なケースも少なくない。しかし、今回は完全に当たり回だった。人選が良かったからだ。結局のところ、タレントのほとんどは「激レアさん」である。