10月25日放送『証言者バラエティ アンタウォッチマン!』(テレビ朝日系)が特集したのは、松村邦洋。今回のタイトルは、「1997年の松村邦洋」である。
明日25日(火)よる11時45分❣️#アンタウォッチマン#松村邦洋 SP✨
その天才的な記憶力と努力で
唯一無二のモノマネ芸人に✨#電波少年 降板の1997年にスポットをあてその人生を紐解きます㊙️#出川哲朗 #爆笑問題 #原口あきまさ が証言
改めて松村さんの凄さが分かります‼️@bawbawofficial pic.twitter.com/5o3Mr7q79K— 【公式】証言者バラエティ アンタウォッチマン!@neta_sand) October 24, 2022
コロッケが『ものまねグランプリ』(日本テレビ系)から卒業したのも、この放送と同じ10月25日だった。そんな日に松村が特集されるというのも運命的なものを感じるが、単なる偶然である。
松村の半生を語る上で避けられないのは、2009年の東京マラソンだ。あのマラソンの15キロ地点手前で松村は倒れ、心肺停止状態になった。このときの出来事から松村は復活できて、本当によかった。そういう意味で、ビートたけしが幾度も重ねてきた復活劇に松村はあやかっている。
“松村以前”、ビートたけしをものまねする人はいなかった
松村がものまねを始めたきっかけは、中学2年のときに同級生から「『戦場のメリークリスマス』のビートたけしに似ている」と言われたことである。
あと、彼がものまねの腕を磨いた理由の1つとして、学生時代のいじめ経験も挙げられる。「withnews」のインタビュー(2021年3月23日付記事)にて、松村はこう答えている。
「普段はいじめられっ子なのに、怖い先輩のモノマネをすると、いじめられっ子にも強くものを言えるってことに気付いたんです。例えば、暴走族の人に絡まれた時、金八先生の加藤優のモノマネで『バカやってねぇで、真面目に働け』なんて言ってみたり。自分ではない誰かになることで、強くいられたんですよね。そんな自分にならせてくれるモノマネがあったから、いじめから生き延びられたんだと思います」
88年、20歳のときに松村は素人参加型のものまね番組『発表!日本ものまね大賞!』(フジテレビ系)に出演、ビートたけしのものまねなどで大反響を巻き起こした。
なにが衝撃だったって、それまでビートたけしのものまねをする人などいなかったのだ。そのショックと、あまりのそっくりさゆえ、観客と視聴者は震撼した。
筆者の印象に残っているのは、デビュー間もない松村の『冗談画報』(フジテレビ系)におけるオンステージである。あまりに似すぎていたため、笑うより先に悲鳴を上げていた観客たち。これらの芸とキャラクターが評価され、松村邦洋のブレイクはわりと早かった印象がある。
太田プロでデビューを果たした松村について証言するのは、当時、同じ太田プロに所属していた爆笑問題の2人だ。
「太田プロライブを俺らが始めていて、3回目ぐらいで松村君がまったく無名の素人で来て、(その日のライブを)全部持っていきましたよ。あ~れはびっくりしたよね。『こんな天才がいるのか!』と。あの衝撃は忘れられない」(太田)
そのとき、松村が披露したのは、ビートたけし、石橋貴明、加藤優(TBSドラマ『3年B組金八先生』の主要人物)、古舘伊知郎などだったそうだ。
「たけしさん(のものまね)は今やみんなやるけど、ものまねって不思議なもんで、誰かがやるとできるようになるんですよ。発見なんですよ。『あ、こういうふうにやればいいのか』って。松村君は、だいたいのものまねの先駆者ですよ」(太田)
どの部分に着目し、それをどう誇張すればいいのかの“発見”だ。だから、後に続く人は“ものまねのものまね”になってしまう傾向にある。事実、松村登場以前にたけしを描写する際、多くの人はせいぜいコマネチをするか、首を“クイッ”とひねるくらいしかできなかった。
さらに、松村のものまねの衝撃の理由として、フリートークを模写していた点も挙げられる。お決まりのフレーズ(「こんばんは、森進一です」など)を繰り返すのではなく、“たけしが言いそうなこと”をたけしになりきり、とっさに口にする。だから、たけしが憑依しているように見えたのだ。そんな松村を、たけしも“愛い奴”と思っていたのだろう。自身の服(フィッチェのセーター)を松村にあげ、その格好でものまねするよう促していたものだ。
他にも、彼が“発見”した例は数多い。堺雅人については2004年放送の大河ドラマ『新選組!』(NHK)の頃からまねしていたし、晩年の森光子をものまねし始めたときは、盲点すぎてのけぞった。「松村がなんだか物凄いことを始めた」と、戦慄が走ったのだ。晩年の森光子をまねしようと思う発想が、天才すぎてよく理解できない。
そして、“発見”の究極形は、やはり『金八先生』の加藤優だと思うのだ。“たけしものまね”に関しては多くのフォロワーを生んだが、加藤優については松村以外の誰もまねていない。完全に彼の専売特許だ。他のものまね師も、手を付けるのは憚られたのだろう。まさに、畏怖の対象に近い大発見なのではないか?
さらに、太田には松村との思い出がある。爆問と松村が新幹線で名古屋の営業先に向かっているとき、同じ新幹線に修学旅行生が乗っていたらしい。
「『ちょっと松村君、行こうよ!』って言って、俺が司会みたいな感じで『それではまず、ビートたけし!』って振って『(たけしのまねで)はい、どーも! こんにちは』って(松村が)言ったら、高校生が“ワァ~!”って大喜びして」(太田)
2人でやるなら、まだわかる。でも、こういうことを松村は1人でもやっていた。今から約30年前、筆者が中学時代に読んだ雑誌「BIG tomorrow」(青春出版社)が松村を特集していたのだが、そこには新ネタを試すべく、山手線の車内で突如大声でものまねし始める松村の姿がレポートされていた。こういう“修行”を、彼は1人日常的に行っていたらしい。
周囲から見れば、ある意味、危険人物と思われたに違いない。でも、これは松村のストイックさを表すエピソードだとも思うのだ。
1992年、松村は『進め!電波少年』(日本テレビ系)のMCに抜擢された。芸歴4年目、25歳の頃だ。
松村といえば、やはりこの番組である。『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA』(日本テレビ系)のレギュラーだったウッチャンナンチャンが主演映画『七人のおたく』撮影に専念するため、『SHA.LA.LA』は半年間、放送を休止することに。その穴埋めとしてスタートしたのが、『電波少年』だった。
しかし、「牛のゲップを吸い切りたい」(牛のゲップから発生するメタンに温室効果があるため、松村が吸引器で吸い切ろうとする企画)や「ユン・ピョウは本当に強いのか」(香港のアクション俳優ユン・ピョウに松村がアポなしでハリセンで襲い掛かる)といった過激企画が世に大反響を巻き起こした『電波少年』は、そのまま継続が決まった。
同番組初期の名物企画といえば、「渋谷のチーマーを更生させたい!」である。この企画以降、松村はよくチーマーに絡まれるようになり、“エアマックス狩り”ならぬ“松村狩り”という言葉が特に渋谷でまかり通るようになった。
当時の状況について証言するのは、松村の戦友とも呼べる出川哲朗である。当時は“松村狩り”だけでなく“出川狩り”という言葉も存在した。さらに、『電波少年』の海外ロケで、出川はシドニーのゲイにお尻を掘られるという憂き目にも遭っている。だから、松村にとって出川は戦友だ。
「本当に、可哀想なくらい(松村は)悲惨でしたよね。だって毎日、家にチーマーの人たちが来ちゃうから。松っちゃんの家の入り口に、トマトケチャップで『ファッションヘルス松村』とか書かれたり」
「中野坂上に住んでたんですけど、中野坂上の寿司屋に行ってメニューを開くと、松村の電話番号とかマンション名と部屋番号が書いてあったり(苦笑)」(出川)
松村自身も、この時代を振り返っている。
「家に(チーマーが来るの)も日常茶飯事でしたね。会いに来てくださるみたいですね。下(マンションの1階)が寿司屋なんですよ。食後に皆さん、来られて(苦笑)」(松村)
まさに、“会いに行ける”の元祖だ。ロケだけならまだ仕事と割り切れるが、チーマーとの軋轢がプライベートにまで及ぶのだから、気の休まる時間はまるでない。この頃、松村と出川はお互いを鼓舞し合っていた。
「松っちゃんと僕がいつも言ってたのは、僕の座右の銘なんですけど、『一生懸命頑張っていれば、誰かが見ててくれる』っていうのが。これは、松っちゃんといつも言い合ってましたね」(出川)
「出川さんとは『電波少年』のときからお互いやってたんですけど、出川さんが僕に『松っちゃん、今回のロケどうだった?』、『いやあ、出川さん。キツかったですよ』、『“キツかった”って言葉が出てたら、このロケうまくいってるよ。キツいって大事なんだよ、松っちゃん』って」(松村)
出川のメンタルは、やっぱりすごい。こうして両者は励まし合っていた。やっぱり、2人は戦友である。
97年、松村は『電波少年』を降板した。
「僕も新聞で知ったんですけど、『松村、卒業』って」(松村)
表向き、松村降板の理由として伝わっているのは以下である。
「テレビ朝日の『サンデージャングル』って番組の前の阪神・巨人戦のゲストで出させていただいたときに、ちょうど中継が終わったら『サンデージャングル』が始まるから、『サンデージャングル見てください!』って言ったら、たまたま『電波少年』も30分押して(『サンデージャングル』の)真裏になっちゃったんです」(松村)
つまり、自身のレギュラー番組『電波少年』の中で、裏番組の宣伝をしてしまったということ。この失言を『電波少年』スタッフが面白がり、それがそのまま「松村、卒業」につながった……という形だ。
真実は、おそらく別にある。松村が降板する1年以上前から、猿岩石のヒッチハイク旅を皮切りに『電波少年』は方針が変わりつつあった。いわゆる、長編ものにシフトチェンジしようとしていたのだ。その方向性の中で松村の存在意義を見出すのは難しくなり、松村は降板という形になってしまった。
以降、本人の中では芸人としてスランプ期に突入していたらしい。
「(『電波少年』から)飛び出したら、(他の)番組ではわりと大事にされるんですよね。やっぱり、大事にされると大事にされるで自分じゃないなって。『電波少年』(のレギュラー)が終わって、スタッフのありがたみがわかりましたね。(ロケで)おいしい刺身を食べてたら、本当においしい刺身を食って終わるとか。屋形船に乗ってたら、最後まで屋形船だったりとか。(船が海に)落ちないし、『いいのかなあ?』と思って」(松村)
普通のタレント扱いをされると、物足りなさを感じていた松村。この頃の彼は、少し病気に近い気がする。
自分らしい笑いが生み出せなくなった松村は、原点回帰を決意。彼の原点といえば、ものまねだ。
「時間があったので、ふと大河ドラマを見ていたら、津川雅彦さんと西田敏行さんが出ていたので、またイチからものまねの腕を磨こうと思った。録画して2人のセリフをすべてノートに書き起こして、日々研究。ビデオの音声を消して、ものまねでアテレコ。それを繰り返して完コピを目指した」(松村)
まさに、「頑張っていれば、誰かが見ててくれる」を信じての行動だ。松村の自宅に大量のノートが保管されているのは、ファンからすると既知の事実。ドラマを何度も見返し、セリフすべてを暗記するほど研究するのだ。もはや、演じた俳優よりそのセリフは頭に記憶されている。松村は、オタクで天才。天才が努力しているから、神業が生まれる。
大河オタクであり、歴史オタクの松村。彼の有名な持ちネタの1つに、「織田信長のオールナイトニッポン」がある。織田信長と言いつつ、そのキャラクターは完全にたけし口調のままのアレだ。
「はい! というわけでございまして、織田信長ですけどね。今日は、天正10年6月2日(信長の命日)ですけどね。いつもは有楽町のニッポン放送でオールナイトニッポンやってますけど、今日はね、スペシャルウィーク、レーティングということで、なんと、京都は本能寺にやってきました!」
「この後ね、ゲストで明智光秀がやってきますんでね。ちょっとなんか、嫌な予感がしますけどね」
「織田信長のオールナイトニッポン! この番組は、“あなたも撃ってみませんか”種子島鉄砲隊、ザビエル・イエスズ会、水と生きる高松城、“家族みんなでショッピング”楽市楽座・友の会、以上各社の協賛で全国34局ネットでお送りします」
「先週までスポンサーだった比叡山がね、スポンサー降りるっていうからね、昨日焼き討ちしといてやった、バカヤロウ。ろくなもんじゃねえよ、バカヤロウ!」
「あっ。なんか焦げ臭いよ、バカヤロウ! 光秀、バカヤロウ。入りが早いよ、バカヤロウ! あの野郎。アッチッチッチ」
殺される前提でラジオの生放送を続ける、レーティング期間中の信長。「暑い」じゃなくて「熱い」とリアクションしている様が不憫だし、比叡山焼き討ちの顛末を軽快なフリートークで明かす信長の臨場感は最高。松村の日本史の知識が反映されており、戦国時代好きにはたまらないネタとなった。ほとんどこれは創作落語だし、松村の天才性が見事にパッケージ化された一流の芸である。
あと、松村のセカンドブレイクのきっかけとして、掛布雅之のものまねも挙げられると思う。まさにこれは、前述した松村の“発見”能力の賜物。事実、松村がものまねし始めるまで、掛布のしゃべり方にそれほど特徴があるとは思っていなかった。でも、松村が掛布のものまねをすると完全に本人なのだ。
特に、ラジオがやばい。声のみのラジオで松村が掛布をものまねし始めたら、まるで笑い薬を飲まされたような感覚に陥る。筆者は松村のラジオを聴きながら、掛布のものまねのせいで夜中に笑いが止まらなくなったことがあった。
あと、過去に松村は、掛布のものまねをしながら野球評論家・青田昇へ電話し、最後までばれずに青田を騙し通したという偉業も成し遂げている。そこまで似せて、一体どうしようというのだろう?
さらに、再び松村が注目を浴びるきっかけになったネタとして、“ひとりアウトレイジ”も挙げられる。ビートたけし、西田敏行、小日向文世、中尾彬、松重豊といった総勢約10人の名俳優のものまねを1人でやってのける神業だ。
実はこの芸の誕生には、中尾からの助言が関与しているそう。その助言を、中尾をまねしながら松村が再現してくれた。
「松村、今ね、『アウトレイジ』って映画に俺出てるんだけどね、『アウトレイジ』にお前がやれそうな人いっぱい出てるから、今のうちに新宿の映画館でさらっておきな。朝、意味なく散歩するよりも、とにかく朝に映画を見て、それから散歩して戻ってきたらいいんだよ。朝にとにかく映画を見な」
驚きは、「小日向(文世)できるだろ?」という中尾の助言で、松村は初めて小日向文世のものまねに着手したという事実だ。大御所俳優・中尾彬の優しさにグッとくる。
あと、ものまねする人には必ずお歳暮・お中元を送る松村の日頃の行いも関係していると思う。たけしからも、中尾からも、西田敏行からも、津川雅彦からも愛されている松村は、やはり稀有な存在だ。
比較的、売れるのは早かった松村だが、実は今までに3度も死にかけている。『電波少年』ドバイロケでの「砂漠遭難事件」(砂漠の真ん中で乗っていた車が故障し、丸1日遭難した)、『電波少年』からの降板、東京マラソンでの心肺停止を合わせ、計3度だ。
そんな浮き沈みがありながら、今、松村がレジェンド扱いされている理由は、彼の持つ天才性に尽きる。松村は狂人でもあり、天才だ。
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