──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
茶々(北川景子)と豊臣秀頼(作間龍斗)| ドラマ公式サイトより『どうする家康』第44回は、茶々(北川景子さん)が愛息・秀頼の背丈を毎年正月に刻むと話していた大坂城の柱が、全編を通じて効果的に使われていましたね。年ごとにガリッ、ガリッと柱が削られる音とともにぐんぐん伸びていく秀頼の背丈に「怪物の成長を現しているかのようだ」との声もありました。
番組終盤、慶長16年(1611年)の正月には、恒例の身長測定を終え、茶々が「どこからどう見ても見事なる天下人であることよ!」と喜色満面で宣言、御簾の向こうからHiHi Jetsの作間龍斗さん演じる秀頼が「さあ……宴の時じゃ」と初登場した瞬間には、かなりテンションが上がってしまいました。作間さんは180センチの高身長だそうで、『どうする家康』の秀頼も、背丈に関しては当時の史料を反映した内容になりそうです。
しかし、一次資料で語られる秀頼はさらにインパクトの強い外見をしていました。ドラマの秀頼とは異なり、史実の秀頼はとにかくタテにもヨコにもデカかったようなのです。見目麗しかったという説もありますが、『明良洪範』という史料には「御丈六尺五寸」……身長195センチとあり、『長沢聞書』によると「世になき御ふとり也」、つまり「めったに見ないほどの巨漢」だったとされています。しかも日本人だけでなく、たとえばスペイン人商人のヴィスカーノも、慶長17年(1612年)に大坂城で秀頼に謁見した際の印象を「非常に肥えふとり、自由に身を動かせないほどである」と証言しているので、秀頼は誰の目からも「デカすぎる男性」だったようです。
それも、単なる肥満ではなく、今でいえば力士とかヘビー級のプロレスラーみたいな体型だったのではないかと思われます。当時の日本に滞在中のオランダ東インド会社の社員が長崎・平戸の商館長に宛てた手紙が最近発見されており、その中で秀頼の怪力ぶりが語られているのです。それによると「秀頼の数人の大名が、赦免が得られると考え、皇帝(=徳川家康)側に寝返るために城に火を付けたが、彼らは逃げる前に秀頼によって、その場で落とされて死んだ」そうです。
もちろん、この「落とされて死んだ」を、「秀頼が裏切り者の首根っこを掴み、城から放り投げて殺した」と考えるか、「突き落として殺した」と解釈するかでかなり印象が異なりますし、『東照宮御実記』などの日本側の信頼できる史料には秀頼自ら誰かを粛清したとするこの逸話についての情報が見当たらないため、この東インド会社社員の報告書の信頼性に問題があると見る人もいます。しかし、筆者にとって重要だと思われるのは、いざとなれば怪力を発揮し、人を突き落として(もしくは投げ落として)殺すことができるだけの潜在的なパワーが感じられるような体型だったからこそ、この手の「噂」が出たのではないかという点です。
身体の大きさ、たくましさにも象徴されるように、秀頼は性的にも早熟でした。千姫が16歳で男子の元服に相当する儀式を終えるまで――つまり彼女が寝所で妻としての役割がこなせるようになるまでの間に、千姫より4歳年上だった秀頼は2人の側室との間に男女2人の子どもを授かっています。
もっとも秀頼は、千姫が“元服”を終え、名実ともに自分の妻になると、側室たちを遠ざけ、千姫を大切にしました。当時の女性の“元服”では、前髪の一部を切り揃える「鬢削ぎ(びんそぎ)」の儀式が行われましたが、千姫の髪を切ってやったのが秀頼でした。光源氏と紫の上を彷彿とさせるような、仲睦まじい夫婦であったようです。秀頼が複数の側室と子どもを持ったのを見ても、千姫が焦ったという記録はなく、それはつまり7歳で大坂城に嫁いだ千姫が秀頼からの愛情を確信していた……ということなのかもしれません。
秀頼が早熟の巨漢で、生殖能力が高いことなどは、すべて亡父・秀吉とは正反対なので、茶々が大野治長などの子をこっそり宿したのが秀頼だとする伝説が生まれるのも仕方ないことかもしれません。しかし、秀頼生母の茶々自身、父方から受け継いだ浅井家の遺伝子によって高身長であったともいわれ、以前にもこのコラムで説明したように、上記のような特徴から「秀頼は秀吉の実子ではない」と結論づけるのは早計でしょう。
秀頼は、幼い頃から書を学び、学問に深い造詣がある人物でした。これは秀吉譲りの才能かもしれません。
秀頼は、関ヶ原の戦い以降はさらに幅を利かせるようになってしまった徳川家康を抑制するべく、己の知性を政治パフォーマンスに活かしています。中国古代からの聖人君子の事績を集めた『帝鑑図説』という教育書を自ら編集し、通称・秀頼版の図説を有力大名たちに配ったのです。当時、秀頼はまだ14歳の少年でしたが、この頃にはすでに、自らを早熟の聖人君子で「天下人」にふさわしい器であると周囲にアピールしていたのでしょう。
また、秀頼は伝統文化の保護にも熱心で、戦乱の世の中で廃絶したり衰退した寺や神社を熱心に復興させたことで知られました。そうした文化活動の中で、徳川家との深刻な不協和音が発生してしまったのが、次回のドラマで取り上げられるであろう「方広寺鐘銘事件」ですね。(1/2 P2はこちら)

方広寺は現在の京都市東山区にある天台宗の寺院で、秀頼の亡父・秀吉が文禄4年(1595年)に創建しました。創建当初は「方広寺」という名前ではなく、本尊である19メートルもの毘盧遮那仏(いわゆる大仏)を安置する場所として、「大仏殿」などと呼ばれていたようです。
しかし慶長19年(1614年)、秀頼主導のもと制作された梵鐘に刻まれていた銘文に関して、徳川家からクレームがつきました。「家康が一日も早く豊臣家を潰すためにイチャモンをつけた」という見方が一般的なようですが、筆者は秀頼が家康に宣戦布告を図ったのではないか……と考えています。
問題となった梵鐘の銘文は、南禅寺の長である清韓という僧が発案したものです。
徳川側のクレームはイチャモンなのかどうなのかという点ですが、起草者の清韓が銘文の中に「豊臣」とか「家康」の文字を意図的に折り込んだと認めていることは見逃せません。清韓は「祝意」のつもりだったと弁明していますが、形だけの言い訳でしょう。秀頼は漢文に秀でたインテリですから、徳川家からクレームがついて、戦が起きてしまう未来までを想定した上で、清韓に問題の文章を書かせたのではないかとも考えられます。
秀頼が意図的に仕掛けたものだとすれば、秀頼の考えていた理想の「シナリオ」は、「平和と文化を愛する豊臣秀頼公の行為に、無粋なイチャモンを挟んで戦争まで仕掛けてきた徳川を、秀頼公は見事に討ち取った」というものだったはずです。一方で、当時の戦は主張と主張のぶつかり合いであり、己の正義を証明する場所でもありますから、クレームをつけるからには家康側にも「シナリオ」はあったはずです。
家康がイチャモンをつけたとする説では、方広寺の事件に先んじること3年前、慶長16年(1611年)3月に当時19歳の秀頼と京都・二条城にて初対面したとき、家康が秀頼の思わぬ早熟ぶりに警戒を強め、一日も早いうちに秀頼ごと豊臣家を滅ぼさねばならないと痛感したために梵鐘の銘文をあげつらった……というふうに語られることが多いですが、はたしてそうなのでしょうか。もし、本当に家康が二条城で会った秀頼を脅威に感じたのであれば、「若い芽を摘め」とばかりに、秀頼が一人前になるのを待たずに、さっさと何かしらのイチャモンを付けて戦を開始してもよかったはずです。そうしなかったということは、家康の「シナリオ」はおそらくそれとは逆で、秀頼が名実ともに成長し、己の意志で戦を開始できる状態――つまり大人と大人の戦いができるようになるのを、家康は首を長くして待っていたのではないでしょうか。
当時ではかなりの高齢者とされる60代後半に差しかかりながらも、健康オタクの家康は自分はまだまだ壮健でいられると自信があったのだと思われます。
それにしても、次回のドラマではどのように家康と秀頼の「二条城会見」を描くのでしょうか。第45回のあらすじには〈家康は、秀頼を二条城に呼び、豊臣が徳川に従うことを認めさせようとする〉とあります。17世紀初頭における豊臣家と徳川家の間には明確な主従関係はありませんでしたが、二条城会見において秀頼は、官位と年齢が上の家康から「対等な立場に見えるように座りましょう」という提案を受けていたにもかかわらず、家康に上座を譲りました。そんな大人びた秀頼を、家康は「母上(茶々)がお待ちかねだろうから早く帰りなさい」と子ども扱いしてマウントを取ったとする逸話もありますね。ドラマの家康は秀頼を脅威に感じるようですが、史実の家康は、成長した秀頼を見て、「もうそろそろ戦を仕掛けてもよさそうだ」と感じていたのではないか……などと考えてしまう筆者でした。放送回数が残り少ない『どうする家康』ですが、家康と秀頼の関係が濃密に描かれることを期待しています。
<過去記事はコチラ>『どうする家康』晩年の榊原康政と本多忠勝が家康と「距離」を置いた理由とは──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ...







