M-1グランプリ2023 アナザーストーリー王者・令和ロマン | TVer

 おそらくはバーが10kg、プレートが20kg×2枚で計50kgだろう。ベンチプレス50kgという重量は、トレーニング初心者の平均値といったところだ。

別に重くないし、『M-1グランプリ2020』王者のマヂカルラブリー・野田クリスタルは150kgを挙上する。その1/3である50kgを令和ロマン・松井ケムリが苦しそうに挙げているシーンで、今年の『M-1グランプリ2023 アナザーストーリー』(毎日放送)は締めくくられた。

 なんでだ。

 今回の「アナザーストーリー」の制作には、テレビカメラ186台、444時間が撮影に費やされたという。無論、それだけではない。過去の映像も含め、朝日放送に蓄積されているM-1関連の映像は天文学的な質量になるに違いない。その長大な記録から抽出された1時間番組の、そのクライマックスの数秒が、ケムリの別に重くもないベンチプレスだったのだ。なぜなのだ。ともあれ、『M-1』総合演出の下山航平氏がX(旧Twitter)上で「昨年までのアナザーストーリーとはひと味違う雰囲気です。後輩ちゃんたちが編集頑張りました。」とポストしていた今回の「アナザーストーリー」は、前回までとは一味違う仕上がりになっていた。

 話は、一昨年の『M-1』にさかのぼる。王者となったウエストランドの井口浩之は、ほかでもない『M-1』最終決戦の舞台上でこの「アナザーストーリー」をあげつらった。

いわく「うざい」「泣きながらお母さんに電話するな」「見てらんないんだよ」。実際、ウエストランドにフィーチャーした「アナザーストーリー」で井口はその言説の通り、あらゆる“本音”と“感傷”を提供することを拒否し、王者の本質に迫るはずのインタビューパートを担う映像の大半は、2020年の決勝初出場前に撮影されたものとなった。井口がYouTubeで明かしたところによれば、「アナザーストーリー」では優勝した瞬間に撮影クルーが入れ替わっていたのだという。それまで付いていた『M-1』の密着スタッフが離れ、ドキュメンタリー専門のスタッフが代わりに取材を担当するという流れだったそうだ。

 ここまで暴露されれば、意識しないわけにはいかなかっただろう。前回、失敗を余儀なくされた「アナザーストーリー」は、その象徴的なアイテムであった「親族への涙の電話」を演出しなかった。「お世話になった床屋で涙の角刈り」もない。生活者としての王者に迫るのではなく、あくまで漫才師として、芸人として、勝負師としての王者を語ろうとしているように見えた。それが今回の「アナザーストーリー」を制作するうえでのコンセプトだったのか、あるいは今回の内容、つまりは令和ロマンというコンビの優勝を受けての路線変更だったのかは知る由もない。

 すごいシーンがあった。

 2018年、元学生お笑いのカリスマ・魔人武骨はプロになってわずか半年、準決勝の舞台袖にいた彼らは、まるで戦場に迷い込んだ仔犬だった。壁際に追いやられて所在なく肩をすぼめる高比良くるまの視線を通して見た『M-1』準決勝進出者たち。

和牛ジャルジャル見取り図、ウエストランドの河本太さえも、漫才の巨人だった。

「これなんだ? これなんだ? って、漫画みたいに思ってましたね。先輩とかじゃないですよ、感覚的には。なんだこの次元というか、雷打たれた」

 漫才に命を懸ける者たち。

 かつて、その光景を見て同じ感覚を抱いた人物の話を思い出す。

 昨年、MBSの局アナという立場で落語家・錦笑亭満堂とコンビを組み、「ヤングタウン」として準々決勝まで進んだ福島暢啓は、大学時代に「志ん茶」というコンビで2度準決勝まで進んでいる。その舞台で、くるまと同じ景色を見た。

「(自分には)絶対無理だと思いました。人生をそこに投入している人たちの戦いを見てるわけですね。ほかのメンバーが漫才をしているときの袖で見ている顔とか、モニターを見ている顔とか、タバコ吸ってる顔とか、コーヒー飲んでる顔とか、ただただ空を見ている芸人さんの顔とか見てたら、僕らみたいなもんでは到底敵わないって思いましたよ」(MBSラジオ『ヤングタウン』より)

 福島はテレビ局に就職し、くるまは『M-1』にはまり込んでいく。

 『M-1』に魅了されたくるまにとって漫才が生き甲斐だったとしたら、ヤーレンズにとっては呪縛だったのかもしれない。一昨年、初めて足を踏み入れたその準決勝の舞台には、もうかつて大阪の町でしのぎを削ったかまいたちもジャルジャルも見取り図も、後輩の霜降り明星さえもいなかった。

取り残されている。その感覚が、覚悟を促した。

 敗者復活戦に敗退した舞台上で、ヤーレンズは令和ロマンとのツーマンライブを決めていたのだという。1月から11月まで11回。12月は『M-1』本番を「ヤレロマ」にする。

 芸歴もキャリアもまったく違う2組の漫才師が22年の敗者復活戦でリベンジを誓い、毎月3本の新ネタを下ろしながらたどり着いたファイナルステージ。決勝進出者発表の瞬間、令和ロマンは自らの準決勝通過に冷静に頭を下げながら、ヤーレンズの当落には手を合わせて祈り、その結果に思わずガッツポーズを決めた。

 今回の『アナザーストーリー』は“2組の勝者”の物語だった。令和ロマン、ヤーレンズ、令和ロマン、ヤーレンズ……2組のコンビ名のパネルがめくられていく。確かに彼らは『M-1』を「ヤレロマ」にしてしまった。8,540組がエントリーした『M-1』を本当にツーマンライブにしてしまったのだ。

 令和ロマン・くるまは『M-1』への恋愛にも似た衝動だけで2連覇を目指し、ヤーレンズ・楢原真樹は「最後、決勝でブチ殺してやる」と怪気炎を上げる。

「変わんねえなあ、人生!」でお馴染みの出井隼之介は確かに人生を変えた。

 そして思い当たるのである。ファーストステージ1位は、さや香だった。あのままさや香が優勝していたら、今回の『アナザーストーリー』で放送されたVTRの99%は日の目を見ないまま破棄されていたのだ。ケムリのベンチプレス映像は、間違いなく破棄対象の第一候補だったに違いない。

(文=新越谷ノリヲ)

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