全然知りませんけど、たぶん「全編、歌舞伎町でロケできる」という環境が先にあったんだろうなと思うんですよね。
ちょっと前なら歌舞伎町なんて首から一眼レフ下げて歩くのさえはばかられるような街だったわけですし、Netflixの『全裸監督』やら『シティーハンター』やら「歌舞伎町でロケしたよ」というだけでニュースになったりしてましたけど、『新宿野戦病院』(フジテレビ系)はもう冒頭から堂々と夜の歌舞伎町。
これも推測だけど、まず「歌舞伎町でロケできるから歌舞伎町のドラマを作ろう」というところから始まって、脚本にクドカンがツモれて、その時点である程度成立したんだと思うんです。
そう思うのは、今作ではクドカンの筆が走ってる感じがするんですよね。ちょっと前に、TBSで「時代による文化・風俗の変遷と、その是非を問うこと」を主題とした『ふてくされるのもほどほどに』みたいな作品がありましたけど、あのときのクドカンは堅苦しいテーマを押し付けられて、いかにも窮屈そうだった。
『池袋ウエストゲートパーク』(TBS系)、『木更津キャッツアイ』(同)、ひとつの街にフォーカスした群像劇はクドカンの得手ですし、本来ならTBSの磯山晶Pがやるべき仕事を、フジテレビが実現している。第1話はそんな感じでした。こういう走ってるクドカンのドラマ見ると、あたらめて思うよ、『ふてほど』おもしろくなかったなぁ。
というわけで『新宿野戦病院』、振り返りましょう。
■不親切にもほどがある
歌舞伎町のド真ん中に小汚い医院があって、なんやかんやで歌舞伎町にやってきた日系アメリカ人の元軍医であるヨウコ・ニシ・フリーマン(小池栄子)がそこで働くことになる。
ヨウコは国内の医師免許がないので“闇医者”として患者の命を救っていく。そこに、現在の歌舞伎町を象徴するような人たちが、それぞれのエピソードを抱えて次々に運び込まれてくる。お話としては、それだけです。
あとは、登場人物たちのキャラクター勝負で、主人公・ヨウコのキャラクターの性格付けから、どうやら「平等ってなんだろな」みたいなテーマが浮かび上がってきそうな気配がする。
で、ヨウコのキャラクターとして「手技が雑」というのがありました。元軍医だけあって、撃たれた人が運ばれてきたら麻酔が効く前から開腹しちゃうし、縫合も適当。結果、治れば別にいいじゃんというノリで治療をしている。
それと同じように脚本も、結果伝わればいいじゃんというノリで、ヨウコには英語と岡山弁をごちゃ混ぜにしながら専門用語の連発してくるし、映画オタクの警官は「タランティーノとロドリゲスも知らないくせに」とか「ロメロじゃん」とかトー横キッズが聞いたら何がなんだかわからないセリフをそこらへんにポイ捨てしている。まったく、ドラマとして、不親切にもほどがあるんです。
こんなふうに、キャラクターと世界観が一致している作品は見やすいし、見ていて気持ちがいいんですよね。
■男かな、女かな
ドランクドラゴンの塚地武雅が演じているジェンダーレスな看護師長の堀井さん。その性別について、「男かな、女かな」とみんなが話し合うシーンがありました。
ここだけ、なんか浮いて見えたんですよね。
ほっとかないんだ、と思ったんです。
新宿が舞台のドラマで、塚地さんにオカマ(あえてそう呼びます今は)を演じさせて、群像劇に溶け込ませた上で、その議論をわざわざ持ってくるんだ、と思ったんですね。
ああいう人が当たり前にいていい世界観だと思って見ていたので、急にここだけ違和感があったというか、「ああ、クドカンでもこの部分はまだ視聴者を信用できないんだな」と、見る側として申し訳なくなる感覚があったんです。別にケリつけなくていいのに、と。
歌舞伎町で、いろんな人が出てくるドラマですから、こういうエクスキューズが必要になる場面が今後も出てくるのかもしれません。そういう意味で、今のドラマの作り手が、視聴者のいろんな意識のアップデートというものをどれくらいのレベルで見積もっているのか。それを計れる作品にもなるのかなという、そんなことも考えました。
ともあれ、クドカンのおもしろいところが存分に発揮されそうな『新宿野戦病院』、最終回まで楽しみに見られそうです。
(文=どらまっ子AKIちゃん)