──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
安倍晴明を演じるユースケ・サンタマリア(写真/Getty Imagesより)『光る君へ』第30回「つながる言の葉」は、まひろ(吉高由里子さん)こと紫式部による『源氏物語』執筆開始の物語かと思いきや、都を襲った干ばつの惨状と安倍晴明の生命を削って行われた雨乞いのインパクトのほうが強い回だったかもしれません。
すでに陰陽寮の職務を引退していた安倍晴明(ユースケ・サンタマリアさん)ですが、「私だけがこの身を捧げるのはいやでございます。
その後、道長は晴明の見舞いを名目に彼の屋敷を訪問し、人生相談をしてもらっていましたね。最近、自分への当たりが強い北の方(正室)・倫子(黒木華さん)や、一向に帝(塩野瑛久さん)と仲良くなる気配のない娘・彰子(見上愛さん)など家族の問題に疲弊した道長に、晴明から与えられた答えは「今、心の中に浮かんでいる人に会いに行きなさい」でした。
こうして真っ昼間から、まひろの屋敷を訪れる道長でしたが、父・為時(岸谷五朗さん)と娘・賢子(福元愛悠さん)はちょうど外出中という、あまりのタイミングの良さに悶絶してしまいました。さすがは「恋愛至上主義大河」……。『光る君へ』は基本的に女性が顔を隠そうともしないし、御簾が下ろされているのも帝とその周辺だけという世界線の物語なので、今更ともいえるのですが、明るい時間帯に男性からの訪問を受けることは、そうとう懇(ねんご)ろな関係の証しでした。こういうところにツッコミを入れるのもヤボなのですが、ドラマのまひろ同様、道長の大胆な行動に筆者も驚愕してしまったのです。
さて、大胆な行動といえば、この回から、あかね(泉里香さん)こと和泉式部が登場しました。寛弘元年(1004年)の盛夏のお話ということで、登場シーンから「(暑いから)服を脱いでしまいたい」とか「みんなで脱げば恥ずかしくありませんわよ!」と持ちかけるとか、「親王さま」との親しげであることを隠そうともしない肉食っぷりにびっくりした読者も多いのではないかと思います。
史実の紫式部による和泉式部評は、『紫式部日記』によると「和泉はけしからぬかた」――和泉式部は「恋愛関係がふしだらで、けしからん女」なのですが、「歌は、いとをかしき」――歌才が素晴らしいなどと言っています。つまり才能のある女性には辛口の紫式部ですら、和泉式部が無視できないほどに輝かしい才能の持ち主であると真正面から認めてしまっていました。
ドラマでは、四条宮邸――藤原公任(町田啓太さん)の邸宅にて、令嬢がたを前に歌の講師をしているまひろが、歌の歴史的背景を丁寧に解説していたのに対し、和泉式部ことあかねは「そんな難しいことを考えて歌を詠んでいらっしゃるの?」などと平然と言ってのけました。
実際、和泉式部の歌の詠みぶりは、まるで呼吸するかのように言葉を発している様子が1000年後の我々にも伝わってくるようで、見事というしかありません。史実の紫式部も和泉式部の発想力の素晴らしさに大いに影響されていたと筆者には思われます。
たとえば、和泉式部の有名な歌のひとつに、
「物思へば 沢の蛍も 我が身より あくがれ出(い)づる たま(=魂)かとぞ見る」という作があります。
「あなたを思いつづけていると、川面を飛び交うホタルが、あなたを慕って私の身体から抜け出てしまった魂のように思われてくるのよ」
と意訳できるのですが、古文の知識が多少でもあれば、訳や解説がなくても、なんとなく内容がわかってしまうのが、和泉式部の歌の特徴といえるかもしれません。
また、この歌には和泉式部独特の斬新な発想が反映されています。当時、魂が身体から抜け出るのは人が死ぬ時だけで、生霊(いきりょう)という発想はまだハッキリとは存在していなかったといわれています。生霊といえば、紫式部が『源氏物語』の中で、光源氏と恋仲になる、自分以外の女性を呪い殺そうと生霊が(はからずも)暗躍してしまう六条御息所というキャラクターが有名なのですが、その発想も、紫式部と和泉式部にやり取りがあったから、あるいは少なくとも和泉式部の例の歌を紫式部が知っていて、その世界観にインスパイアされたからと考えられるわけなのですね。
また、ドラマの和泉式部ことあかねが「親王さま」とだけ言っていた男性ですが、史実でも当時、現在進行系で続いていた「帥宮(そちのみや)」こと敦道親王との熱愛を指しているのだと思われます。「熱愛」というと美しいですが、当時の上流社会を騒がせた「スキャンダル」でもありました。和泉式部自身が執筆したとされる『和泉式部日記』にも詳しく描かれています。
和泉式部の生まれ年は、天延2年(974年)から天元元年(978年)あたりではないかといわれています。ドラマのあかねも20代中盤から後半にさしかかったばかりでしょうか。まひろこと紫式部とは10歳ほど離れているはずです。
学者だった大江雅致の娘に生まれた彼女は、幼少から利発で、天才歌人でもあったようです。彼女はのちに和泉守をつとめた橘道貞の妻となりました。つまり、紫式部同様に中級貴族の出身だったのですね。和泉式部という女房名は、彼女の最初の夫にちなんだものだといわれているのですが、夫ある身でありながら、和泉式部は皇族――つまり最上流階級出身である為尊(ためたか)親王と恋仲になってしまいます。
そして彼が流行り病で亡くなると、悲嘆の彼女を慰問という体裁で口説きにやってきた親王の弟・敦道親王とも恋に落ち、夫と娘(後の小式部内侍・こしきぶのないし)を捨て、敦道親王と北の方が暮らす邸に「召人(めしうど)」――つまり女性使用人として入り込んだのでした。
当時の「召人」とは現在の「愛人」というような意味ですが、男性側には「まったく責任が発生しない」という点で「都合の良い女」でしかない存在です。今の時代以上に身分がハッキリしているのが平安時代の特色ですから、正規の結婚生活を捨て、生家の身分が違うので正規の結婚などありえない高貴な男性の召人になるという人生の選択肢は、あまり賢明ではあり得ません。しかし、それさえ厭わない史実の和泉式部は「恋愛至上主義者」であったわけですね。
ドラマのあかねこと和泉式部の恋のあれこれがどの程度、詳しく描かれるかは興味深いのですが、敦道親王との関係を描いた『和泉式部日記』によると、高貴な生まれで、親王の北の方(正妻)を、たかが召人の身分の和泉式部が圧倒し、やがて失意の北の方が親王邸から出ていってしまうという異例の展開となりました。
本来、北の方というものは、夫の抱える妻妾を管理・監督し、彼女たちと自分の夫との間にトラブルが発生すれば、それを仲介する役割さえ期待されていたので、本来ならば歯牙にもかけるべきではない和泉式部を、自分と対等の女性として考えてしまったのが敦道親王の北の方でした。こういう業深い恋のドラマが、少しでも映像化されるとグッと面白くなる気はするのですが……。
いずれにせよ、こうやって文学や当時の文化について話ができる「大河」というのも良いものですね。そろそろ後半にさしかかった『光る君へ』ですが、今後の展開に期待しましょう。
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