――芸能界を牛耳る巨大アイドル帝国・ジャニーズ事務所。ジャニー喜多川社長率いる、この帝国からは数々のスターが誕生した。

郷ひろみ近藤真彦田原俊彦少年隊光GENJISMAP、そして――。しかし、この帝国の内政が語られることは決してない。鉄壁のベールに包まれた帝国の光と闇を、数々の ジャニーズ非公式本から探っていく。

(前編はこちら)

■芸能史上初のホモセクハラ裁判

 そして、同著のもうひとつの見所は、1964年から実に4年にも渡って行われた、ジャニーズをめぐるホモセクハラ裁判の詳細が描かれていることだ。

 アマチュア時代のジャニーズの4人は、ジャニー氏の紹介で「新芸能学院」という芸能学校に籍を置き、ダンスや歌のレッスンをしていたのだが、人気が出てくると、ジャニー氏は4人をひき連れて学院を飛び出してしまう。これに怒った学院長が、所属中の授業料やスタジオ使用料、食費など270万円を支払うようにと、ジャニー氏を訴えたのだ。

 元々は金銭トラブルを巡る裁判であったはずだが、公判ではジャニー氏のホモセクハラばかりが注目されることとなった。67年9月の公判では、すでに人気グループとなっていたジャニーズの4人が証人として出廷し、原告弁護士の質問責めにあうという、現在では、とてもあり得ない事態にまで発展していたのだ。

 そもそも、学院長がジャニー氏のホモ行為を知ったのは、メンバーのあおい輝彦の、「あんなことされて、僕の一生はおしまいです!」と訴えたのがきっかけだったという。しかし裁判で4人は「何のことか知りません」「覚えていません」と答えている。

 すでに人気アイドルである彼らが、とてもホモ行為の被害者であることなど、認められるはずはなかったのだ。ウソの証言をすることが最高の手段だと、彼らを説き伏せるジャニー氏の指示に従うしか、彼らに選択肢はなかったわけだ。

この証言により、このときの裁判でジャニー氏のホモ行為が認定されることはなかった。

 こうして、4人が保身をはかったことで、ジャニー氏を野放しにし、その後、自分と同じような犠牲者を何人も増やすこととなってしまったことを、ジャニーズ解散から20年近くが経っていた89年の出版当時も、中谷氏は責任を感じ、苦悩し続けていることを明かしている。


今だからこそ言える、いや、言わなくてはならない。私は、裁判で嘘の証言をしてしまいました。私もジャニーズのみんなも全員ジャニーの犠牲者だったのです

 これがジャニーズの歴史のはじまりなのである。

■デビュー後もタダ働きで初任給は2万、そして解散後......

 ジャニーズは、67年11月に解散しているが、その理由はリーダー・真家の独断であったと、同著には記されている。その背景には、ジャニー氏のホモセクハラ、さらにはメリー氏との金銭トラブルがあったようだ。国民的アイドルになりながら、デビューして3年間はタダ働きで、はじめてもらった給料は2万円。貯金も無く、退職金ももらえず、無一文で放り出されただけでなく、解散直前には、メリー氏にそれまでの食事代や衣装代、交通費、お茶漬けやあめ玉、たくあんの一枚までこと細かに記録された帳簿を見せられ、「マイナスだ」といわれたというから、気の毒というより他にない。

 解散後の中谷は、渡辺プロに移籍するも薬物問題で休養を余儀なくされ、事務所を辞める。その後は、大阪でナイトクラブを回っての演奏活動、東京でのディスコの店長など職を転々。郷ひろみの舞台へのゲスト出演をしたこともあったが、その後は、独自で作曲活動を続けるようになり、89年には北公次が参加した「ウィー・アー・ザ・ジャニーズ」というCDに楽曲を提供。

92年には、北の主演映画『怪獣の観た夢』に出演するなど、ジャニー氏の被害者同士で活動をともにするようになっていた。99年からの『週刊文春』とジャニーズの裁判に、文春側の証人として出廷したことが報じられて以来、ここ数年は、名前が取り沙汰されることはほとんどない。

 ほかのメンバーはというと、あおい輝彦は、現在も俳優として活躍中。飯野おさみは、72年に「劇団四季」に入団し、60歳を過ぎた現在もミュージカル俳優として舞台に立っている。リーダーの真家ひろみは、俳優、司会業などをこなしていた時期もあったが、82年にタクシー運転手に転職。00年、53歳という若さで心筋梗塞でかえらぬ人となっている。

『タクシー裏物語―現役ドライバーが明かすタクシーの謎 (単行本)』


人に歴史あり



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