5月12日、日本を代表する名演出家・蜷川幸雄氏(享年80)が肺炎による多臓器不全のため、都内の病院で亡くなった。蜷川氏と仕事上で関わりの深かったジャニーズ事務所は、ジャニー喜多川社長をはじめ少年隊、SMAP・木村拓哉、V6や嵐メンバーらが追悼コメントを発表。
蜷川氏の逝去を受け、ジャニー氏は「昭和と平成を見事につなげた人が、東京オリンピックを待たずにさよならなんて、ずるいよ」とコメント。自身も現在84歳という高齢だが、現役で演出を続けていた同年代の蜷川氏が亡くなり、「寂しい」という気持ちが大きいのだろう。両者はかねてより交流があり、2015年元日放送のラジオ『蜷川幸雄のクロスオーバートーク』(NHKラジオ第1)に、ジャニー氏がゲスト出演したことも大きな話題となった。
その中で蜷川氏は、ジャニーズタレントと仕事をするきっかけについて、「若い良い俳優」を求めているとき、ジャニー氏に「誰かいい人紹介してよ」と声を掛けると、ジャニー氏が何人か連れて来たり、情報をくれたことを振り返っていた。1989年の舞台『唐版・滝の白糸』に出演した元男闘呼組の岡本健一ほか、蜷川氏が劇作家・唐十郎の『盲導犬』の出演者を探していた際は、ジャニー氏がSMAPの中居正広と木村拓哉を連れて行ったという。
結果的に『盲導犬』(89年)への出演を射止めた木村にとって、これが“転機”とも言える出会いだったようだ。2003年に発売された木村のエッセイ集『開放区』(集英社)の中には、同舞台に関するエピソードが記されている。
当時、17歳の木村が厳しい稽古を受けていた頃、ふと家で鏡を見ると「一部分がごそっと真っ白になってた」という。思ったように演技ができない自分に腹が立ち、稽古場のトイレで泣くことあったそうだが、「結局、この舞台の経験が今の仕事をちゃんとやっていこうっていうきっかけになった」と、木村は語っている。
そんな木村は今回の訃報に対し、「自分が今あるのも、当時右も左も分からなった自分に“人から拍手してもらえる厳しさと素晴らしさ”を教えていただけたからだと思います」と感謝の言葉を述べつつも、「少し前に“俺がポシャる前にもう一度一緒にやろうぜ!”って言ってもらったことが、今頭から離れません」と、悔やんでいた。
また、V6の森田剛は10年に『血は立ったまま眠っている』で蜷川作品に初挑戦し、近年のジャニタレの中では、蜷川氏とコンスタントに仕事していた1人。
前述のラジオによれば、蜷川氏に森田を引き合わせたのもジャニー氏だったという。蜷川氏は、同ラジオで森田と出会った頃の印象について、
「“おまえ野ねずみか?”って。『よくジャニーズ事務所にいられるよね』って言ったら、(森田は)『全然何も言われないです』って言ってたけど」
と語っており、「森田くんとか、ああいう変わった子をちゃんと(面倒を見てる)。ジャニーさんところは懐が深い」と妙に感心していたのだった。
一方で、ジャニー氏が“顔見せ”したタレントの中には、中居をはじめ蜷川さんのお眼鏡にかなわなかった人も。少年隊・東山紀之は、かつて「蜷川さん、僕会いに行ったんだけど覚えてる?」と自ら確認してきたそうだが、蜷川さんは東山のことをまったく覚えていなかったという。
とはいえ、東山も『PLAYZONE’90 MASK』での劇中劇『ハムレット』や、『さらば、わが愛 覇王別姫』(08年)、『ミシマダブル「サド侯爵夫人」「わが友ヒットラー」』(11年)で蜷川作品に出演しており、「蜷川さんと会う度に『またやろうな』と言ってくださいました。その言葉がうれしかったです。また、ご一緒したかったです。
このように多くのタレントを送り出すなど、協力関係にあったジャニー氏と蜷川氏。ラジオの最後にジャニー氏は、蜷川氏が幅広い層に向けた舞台を作っていることについて「蜷川さんはさすが、大人の世界なんですよ。我々には子どもの世界しかないわけ」「僕、できないですもん。はっきり言ってこれは。羨ましいですよ」と、尊敬の念を明かしていた。
蜷川氏の演出を受けたタレントたちが今後もさまざまな作品で活躍していけることを願いたい。