世間を戦慄させた殺人事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。
下町の風情の残る東京都葛飾区で「仙石商店」(仮称)を営む石崎伸一(仮名・37)は、若くして親から受け継いだ会社を切り盛りする“下町のプリンス”だった。妻・聡子(35)との間に、中学生の長男と、小学生の長女がいたが、彼にはもう一つ別の生活があった。
仕事の合間に、隣町のアパートへカブを走らせる。ピンクのカーテンがかかる部屋の窓から、細面で目鼻の整った美女が顔を出し、カブに乗る男へ笑顔で手を振る。仙石商店の事務員・八文字美佐子(25)だった。伸一と美佐子は家主に「新婚」だと伝えていたが、実際は妻の目を盗み情事に耽る不倫関係にあった。
約4年前から続く関係にほころびが生まれた時、一人の少女が命を奪われた。
[第2回]葛飾区女児誘拐殺害事件
伸一の長女で、小学2年生だった石崎弥生ちゃん(8)が姿を消したのは、昭和49年10月17日のことだった。住居と事業所が一緒になった仙石商店で、この日、両親は従業員の結婚式のため不在にしていたが、下校してきた弥生ちゃんはそれを聞かされていなかった。
「だれもいないのでアタマにきた。
こう従業員に話して家を出て行くが、その後、足取りは途絶える。見つかったのは約2週間後の10月30日。自宅から車で一時間あまりの距離にある、埼玉県大宮市の雑木林でだった。刺し傷の認められる遺体はすでに腐敗が始まっており、一部はセメントで固められていた。
弥生ちゃんは、2年生だったが身長は135センチ、体重は40キロ近くあり、4~5年生に見えたという。活発な子で向こう気も強く、同年代なら男の子と喧嘩をしても引けをとらなかった。
発育がよいということだけでなく、別の意味でも近所で目立っていた。近隣では「金回りのいい家の子」と見られていたのだ。千円札を2~3枚つかんで菓子屋へ買い物にきて、たくさんお菓子を買っては近所の子に分けてやる。一人でタクシーに乗って友達の家に遊びに行くこともしばしばあり、家から3万円も持ち出して叱られたこともあった。大人のような長いドレスを着たり、かかとの高い靴を履いているところを見た人もいる。
年齢より大人びて金回りの良さが知られた家の娘であることから、当初はわいせつや金銭目的の誘拐の線でも捜査がなされたが、捜査員たちは怨恨の線に勘が働いた。
葛飾区堀切のブリキ職人の長女だった美佐子は、中学を卒業して近くの街工場などでしばらく働いた後、日本舞踊師匠の家に内弟子として住み込んでいた。その傍ら、都立の定時制高校に通う日々。美佐子は、その際立った美貌から高校時代には「マリア」と呼ばれ、近所の者たちからは「下町の吉永小百合」と称されていた。その美佐子を、仙石商店の事務員としてスカウトしたのは、同じ舞踊師匠のところへ習いに行っていた聡子だった。「下町のプリンス」伸一と特別な関係になったのは、美佐子が仙石商店に雇われて8カ月目の、昭和46年3月以降のことだった。
美佐子は、初めて関係を持った経緯をこう明かす。
「私が、首筋が痛いって言ったら、社長さんが『俺は柔道をやっていたから直してやる』と言いまして家の中に入りました。元は1階の部屋でマッサージをしていただきましたが、そのうち社長さんが『ここだとみんなに変に勘違いされるから、二階に行こう』って言うので、二階の部屋に行って、そこでされるままに関係しました。
1週間後にアメ横でネックレスを買ってもらってから、ホテルニューオータニのスカイラウンジへ連れて行ってもらいました。私はああいうところへ行ったのは生まれて初めてだったんです。そこで社長さんに『これから俺と冒険してみないか』って言われて、“奥さんに隠れて浮気しよう”という意味だと思いました。でも幸せな気持ちになりました」(公判での供述)
数回の遊びでは終わらなかった。
「社長は、最初、私と2、3回浮気するつもりだったらしいんです。ところがいざ関係してみると、私が性的な面ですごく気に入ったので離せなくなってしまったと言っていました」
美佐子が伸一に深くのめり込んだのは、彼が“初めての男”だったから……というだけではく、“不倫男の典型的なセリフ”を繰り返す伸一を、美佐子が完全に信じていたことも大きい。
「社長はいつも私に(奥さんのことを)『すごく嫌な奴だ』とか、『死ぬといい』とか、『1日も早く別れたい』というようなことを言っていました」
ホテルや車の中での情事が終わると、ピロートークで伸一は「妻とは離婚して美佐子と結婚する」「千葉県に新工場を作ってそこへ単身赴任し、家族とは別居して二人で暮らそう」など甘い言葉を美佐子につぶやき、彼女は本気になった。だが、夫婦は離婚することなく、約4年がたとうとしていた。
関係が始まりほどなくして、伸一は美佐子との密会のために足立区にアパートを借りた。しかし、やがて聡子がこれに勘づき、アパートに怒鳴り込んだことから、美佐子は一旦実家へ戻ったのだが、諦めきれない伸一は、もう一度秘密でマンションを借りて2人の愛の巣を準備した。そんな中で、美佐子は会うたびに伸一とセックスに励んでいたが、これは彼女なりの“考え”があってのことである。
「これは、私がセックス好きだからではありません。私は社長が奥さんと浮気できないようにするため、一生懸命セックスしたんです。社長さんは関係を持つ時、他の女性との物語を聞かせるんです。
だから私も『私だって何人もの男性と経験あるのよ』と嘘を言いました。
美佐子は、セックスの数こそ二人の愛の証しを示すものとの考えから、46年秋から性行為の記録「ラブ・ノート」をつけ始める。
「これだけ連日肉体関係を結んでいるのだから、夫人と『浮気』するはずはない」
ノートにその記録を書き足すたび、美佐子は自分に言い聞かせていた。
しかし、終わりの始まりとなる、ある出来事が起こる。
――後編は6月10日更新