“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)
そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。
annaさんによる写真ACからの写真あなたは、母親のことが好きですか――?
自信を持って「好き」と言える人がどれだけいるだろう。
そんな「母娘」の関係を打ち明けてくれたのは、稲村幸助さん(仮名・52)だ。
夫の死後、義父母を見送った妹は無一文で放り出された
稲村さんは、公認会計士として独立して10年ほど。大きなクライアントも多く、経営は順調だ。
順風満帆と言いたいところだが、ひとつだけ頭を悩ませていることがある。82歳になった母親と妹の真知子さん(仮名・50)との関係だ。
「二人の仲が悪いんです。一緒に住んでいるんですが、まるで高校生の娘に対するように妹の生活に口を出しては、『帰りが遅い』とか『女が飲みに出かけるなんて、とんでもない』とか文句を言ってはケンカになる。
真知子さんは30代で夫と死別した。結婚していたときは、東北地方で夫の両親と同居していたのだが、この夫がどうしようもない“ボンクラ”だったという。
「職も転々とするし、妻子がありながら出会い系サイトに登録する。ギャンブル好きで、借金まで抱えていました。フラっと家を出たまま帰らなくなって1年ほどたったころ、警察から死んだと連絡が来たんです。いわゆる孤独死ですよ。
それまでも、その“ボンクラ亭主”があてにならないので、一家は舅の収入で暮らしていたという。だから、夫が亡くなっても真知子さんの生活はそれまでと大して変わらなかったし、夫が生きていた頃より平穏な生活を送っていたのだ。
それからさらに10年ほどの間に、真知子さんは老いた舅姑を献身的に介護して見送った。そこまではよかった。
ところが、嫁である真知子さんに舅姑の遺産は1円も入らなかった。「ボンクラ亭主が先に死んだことが、こんな結果になるとは」と稲村さんは苦笑する。
当時、真知子さんには大学生の息子がいた。舅の孫である息子に、大学に通い続けられる程度の遺産が入ったことはせめてもの救いだったが、真知子さんには貯金も生活力もない。これからの生活を考えた稲村さんは、自分と母親が住む関西に戻らないかと提案した。
「母も年を取ってきたので、母のために買ってあったマンションで同居すればいい。そして、母のことを見てくれれば私も安心だと思ったんです」
稲村さんの母親も、真知子さんほどではないが似たような経緯をたどっていた。父親が亡くなったとき借家住まいだったため、住み続けることができなくなったのだ。
稲村さんの提案を受け、真知子さんは母親と同居することになった。これで一件落着。母親の老後も安心――と、思った稲村さんだったが……忘れていたのだ。母親の性格を。
「母は昔から『あなたのためだから』と、子どもを自分の言いなりに育ててきました。とにかく常に自分を優先して考える人だったので、子どもを自分の思い通りにしたかったんでしょう。子どもの頃から、習い事も勉強も、進学先も母の言うとおりにしてきたのですが、私は幸か不幸かちょっと出来がよかった。学校や塾での勉強内容が母の手に負えなくなって、母から解放されたんです。そして大学に入学と同時に家を離れたので、母の呪縛から完全に解かれました」
ところが真知子さんは勉強ができる方ではなかった。そのうえ自己主張したり反抗したりできるような性格でもなかったので、結婚するまでずっと母の敷いたレールを走るしかなかったという。
「『あなたは何もできないんだから』という母の言葉に縛られて、自分でものごとを考えて判断する力がなくなっていったんでしょう。それで、良く言えば辛抱強くなったので、ボンクラ亭主や義父母にも従うことができたともいえるんですが……」
真知子さんは判断力や生活力が身につかないまま結婚し、夫や義父母が亡くなると住むところもなくなり放り出された。母親の犠牲者だともいえるだろう。
稲村さんは、そこに救いの手を伸ばした。
少なくとも、稲村さんはそのつもりだった。
――つづきは11月24日(日)公開
坂口鈴香(さかぐち・すずか)
終の棲家や高齢の親と家族の関係などに関する記事を中心に執筆する“終末ライター”。訪問した施設は100か所以上。 20年ほど前に親を呼び寄せ、母を見送った経験から、 人生の終末期や家族の思いなどについて探求している。
■【老いゆく親と向き合う】シリーズ
・明るく聡明な母で尊敬していたが――「せん妄」で知った母の本心
・介護施設は虐待が心配――生活が破綻寸前でも母を手放せない娘
・父は被害者なのに――老人ホーム、認知症の入居者とのトラブル
・父の遺産は1円ももらっていないのに――仲睦まじい姉妹の本音
・認知症の母は壊れてなんかいない。本質があらわになっただけ