
北朝鮮当局は昨年10月27日午前7時、咸鏡北道(ハムギョンブクト)会寧(フェリョン)市に対して封鎖令を発した。
当局はその理由を、「国境地域で持続的に発生している渡江(脱北)など違法行為と悪性伝染病(新型コロナウイルス)を徹底的に遮断するため」と説明したが、実際は国境警備のために派遣されていた朝鮮人民軍(北朝鮮軍)の特殊部隊「暴風軍団」の兵士が、副分隊長を殺害し、武装したままで逃走したことによるものだった。
市民はその期間中、出勤は認められたものの、私的な外出は禁じられた。当局は、違反者に対して一般的な処罰にとどまらず、軍事裁判にかけると警告した。
この「出勤」とは、国家機関、国営の工場、企業所に行くことを指し、市場に商売に行くことは含まれない。そもそも、私的な商行為は仕事扱いされていないのだ。仕入れた品物は販売できず、腐るがままとなり、市場で日銭を稼いで糊口をしのいでいる貧困層は、餓死の恐怖との闘いを強いられた。
封鎖令により食糧難が広がったと伝えられているが、ロックダウン下の町の状況はどのようなものだったのか。デイリーNKは、詳細を知るために会寧市民Aさんとのインタビューを行った。このインタビューで、会寧では昨年12月にも、10日間にわたって封鎖令が敷かれていたことがわかった。
―封鎖令が下される前に移動統制の兆しはなかった?
会寧市民Aさん:なかった。(当局は)封鎖に備える時間的余裕を全くくれなかった。封鎖令を下したその瞬間から移動統制が始まり、足止めされた。商売をして暮らしている人は大損した。一日の稼ぎが食費くらいにしかならない状況で、不満は相当なものだった。余裕のある人たちは、常に数カ月分の食べ物を備蓄しているが、貧乏人は明日食べるものを買うのも難しい状況となった。ウイルス事態で経済的に苦しくなった人たちが目に見えて増えた。