ナンシー関さんが2002年6月12日に亡くなって、今年でもう10年も経つ。
もうそんなに経ったんだ。

そして知らない間に、ナンシーさんの享年の40より長く生きてしまっていた。
自分で書いて、びっくりしている。
訃報が流れたあの日、私は住んでいた新宿の紀伊國屋書店本店の文庫売り場で店員がナンシーさんの本のコーナーを作り始めたのを見て、慌てて家に走って帰ったんだった。そしてニュースを知った。嗚呼。
私は、自分ではテレビを見ないのにナンシーさんの時評が大好きだった。
とても健全な精神が感じられたからだ。ナンシーさんはどんなに有名になっても観客の位置から動こうとしなかった(仮装大会から仕事のオファーが来て、ハンコを彫る仕事だと思って受けたら審査員で、びっくりして断ったことがあるという)。その位置からではないと自由に物が言えないと判っていたからだ。そして、テレビに映っていることだけを評価し、裏にある業界の事情みたいなものに一切耳を貸さなかった。また、テレビ出演とは本来とても変で、異常なことであるという堅固な常識を持っていた。テレビの中で自然を装ったり、テレビに出るべきではない顔をして出てきたりする者にとても厳しかった。

これらはすべて、とても健全な考え方だ。ナンシーさんの没後、私はそれに代わる物言いの人に出会えなかった。ますますテレビの前から足が遠ざかった。

それから何年かして、ふとマツコ・デラックスという女装の怪人のことを知った。相変わらず私はテレビと縁がなかったのだけど、この人はおもしろいと信頼できる友人が言う。それでマツコの著書『世迷いごと』を読んでみた。
驚いた。そこにあるのは、昔ナンシーさんのコラムに感じたものと同じ精神だったからだ。今年の2月に刊行された『続・世迷いごと』はその続篇だ。いい機会なので、私がなぜマツコ・デラックスが好きなのかを書いてみたいと思う。
『世迷いごと』は役者や歌手、アナウンサーなど、テレビに出てくる職業の女性についてマツコが語る本だった。その本の最初と最後に近いところでマツコは言っている(あ、彼でも彼女でもなくてマツコと呼ぶのは、どっちの性別で呼んだらいいのか、私がよく判ってないからです)。


――これはあたしの勝手な決めつけなんだけど、女優や歌手として大成しようと思ったら、絶対、結婚なんかしてられないんだよ。家庭に安らぎなんて求めちゃダメなんだよ。(中略)幸せな家庭があって、いい旦那がいて、子供がスクスクと育って、安らぎがあって……ということは素晴らしいし、だれもが手にする権利なんだけど、それを手にするってことは何か1つ失っちゃうことでもあるんだよ。
 ――「美しい」というと、何か正当なもののように思えるけど、「絶世の美人」というのはフツーじゃないのよ。敢えて言うと「異形」なのよ。アタシみたいなデブの女装も、もちろん「異形」。
(中略)でも、本来、テレビとかのメディアというのは、フツーでない者が出るべきもの。叶姉妹が出演することが、当たり前なのよ。

これって、ナンシー関と同じ考え方じゃないか? 違うのは、ナンシーさんがテレビ桟敷から動かずに発言していたのに対し、マツコは自ら異形を装ってテレビの中に入る道を選んだことだけだ。
マツコ・デラックスは、この社会が基本的には男のためのもので、力を持っている男たちが認める女とはホステスのように自分に従順な女だけであることを知っている。だからその社会における成功者である勝間和代の著書を「臭いものにフタをし続けて生きている女のバイブル」、勝間の発言を「男のシステムに無理やり女を当てはめただけ」「実は女の人に男と平等の社会を与えようと思ったら、女性に合ったシステムを作るしかない」と批判している。マツコは、ひとの容貌の美醜のみをことさらに問題視するメディアの価値観を、男性優位社会に女性を飲み込むための武器だとも指摘するのである。
「女のくせに生意気」「でも美人だから大目に見る」というわけだ。異形であることは、その〈美〉本位制の価値観から逸脱するために自ら選んだ闘いの道具でもあるのだろう。大げさに言えば『世迷いごと』は、価値観の相対化によってメディアに飼いならされた観客の目を覚まさせる戦略の書なのだった。

で、『続・世迷いごと』である。
今回のマツコは対象の性別を限らず、世間を騒がせたさまざまな著名人を俎上にして語っている。相変わらず芯の部分はブレないな、と次のような個所を読んで思う。

――(前略)でも、アタシにとって、メディアに出てくる人たちは「オモテに出てきたものがすべて」なの。そういう意味では、小泉孝太郎が「公」に見せている姿というのは、もう100点満点。
――あたし、「分相応」に生きる人を高く評価するの。(中略)自分自身、「アタシは基本的にはバカ。人から石を投げられるような立場なの」と思うよう、常々気をつけているの。しょせん「女装」なのよ。(中略)でも、コレって、メディアに出ている人間が絶対に守らなきゃいけないことなの。(後略)

自民党議員・丸川珠代を「やっていることって、土建屋の支持を集めているハゲ政治家と変わらないじゃん」と看破するなど、「実は同性を踏みつけにして〈名誉男〉になりたがっている女」には相変わらず手厳しい。また、モーニング娘。元メンバーのゴシップを相変わらずの飯の種にしているメディアの人間に対しては「子供が大人のように振る舞って働いているのを、見て見ぬ振りしていたわけじゃん。批判記事もいいけど「こんなに精神がガタガタになるまで頑張って、オレたちを潤わせてくれて、ありがとう」ということも書くべき」との批判を向けている(この本とはまったく関係ないけど、後藤真希さんの悪口を言うやつは私が許さん)。これは「女を利用する男」への蔑みである。そして「女を嫌う女」への批判もある。
結婚していたダルビッシュ有に対して慰謝料や養育費を請求したタレントの紗栄子がバッシングされるという出来事があった。彼女を叩いていた人間の多くは、同性だったのである。そのことについてマツコはこう書いている。

 ――だって泥棒にあげるわけじゃなくて、自分の子供に払うんだよ。子供は父親と同じレベルの生活を送る権利があるの。慰謝料や養育費の取り決めは夫の収入によって判断される。紗栄子だって、本来、慰謝料もらっていいの。これはどっちが悪いとかじゃなくて、財産分与なの。(中略)ダルビッシュって稀にみる成功者じゃん。そんな人が好き勝手やって、養育費月200万円で済むなんて前例を作ってしまったらダメ。「あのダルビッシュでさえ」ということになると、普通の人たちも払わなくて済むことになるの。今、日本でちゃんと調停して、養育費5万円なんて決まっても、それを払い続けている男なんて少数派よ。(後略)

男が女を利用し、女も女を利用する。そして男に踊らされた女たちが同性を叩く。メディアによって作り出される価値観の歪みを、マツコは鋭く批判するのだ。 その舌鋒は本の終盤近く、「リーダー不要論」と題した文章では、あの橋下徹大阪市長にも向けられていく。その主張については、ぜひ本を読んで確かめてもらいたい。マツコはあの巨体を揺らしながらメディアという名のステージに上がり、「踊らされるなよ!」と叫び続ける。アナーキーかよ! 仲野茂かよ! でも一生ついていくぜ姐さん! 言った瞬間にマツコの方が自分より年下だったことに気づいたけどまあいいや!.(杉江松恋)