なんの気なしにテレビをつけたら藤本健二氏が映っていた。居ずまいをただし、何を話しているのか耳を傾ける。
なんと11年ぶりに、金正恩第一書記と再会を果たしたという。8月22日から3日間連続、TBS「ひるおび!」に出演してその模様を話すとのことだ。急いで録画予約の準備をした。

藤本健二氏は自身の意志で1982年に北朝鮮に渡った。やがて金正日の目にとまり、1989年からは専属の料理人として傍に仕えるようになる。その際金正日の次男・正哲、正恩の遊び相手も務めた(2003年にマスメディアに登場し始めたころ、正恩ではなく正雲と漢字表記を伝えていた。
これは朝鮮語の発音に関連した勘違いだったと後に訂正している)。著書によれば、金正恩から煙草をねだられたことも多かったという。正恩は指導者としての教育を受けていたため、イメージを重視して表向きは喫煙を禁じられていたのである。

2001年、藤本氏は現地で娶った妻と子供を置いて北朝鮮を出国、日本への帰国を果たす。氏はそれまで食材買い付けのために何度か日本に帰国していたが、その際に公安警察関係者と接触していたことが露見し、スパイ容疑をかけられていたのである。以来藤本氏は、いつ北朝鮮から危害を加えられるかわからないという恐怖の下で暮らすことを余儀なくされ、マスメディアに出演を果たす際にもターバンとサングラスで変装を続けていた。
藤本健二も仮名である。

「ひるおび!」初日の番組内容によれば、藤本氏が日本国内で北朝鮮からの使者と接触をもったのは今年の6月16日のことだった。その人物は、北朝鮮国内で藤本氏と会ったこともある人物で、当事者でなければ知りえない情報を携えていたという。北朝鮮に残してきた妻と子、そして誰よりも金正恩第一書記その人が会いたがっていると聞かされ、藤本氏は渡朝を決意する。
7月22日、前日から平壌市内の第8宴会場内に宿泊していた藤本氏は、金正恩第1書記と同伴の女性との面会を果たした。そのリ・ソルジュという名の若い女性を金正恩は「新しい国母」であると紹介している。
これまで外国メディアが金正恩夫人の名を李雪主(リ・ソルジュ)であると報道したことがあるが、藤本氏訪朝によって事実であると確かめられたことになる。公開された写真により、会見の場には金正日の義弟(妹・金敬姫の夫)である張成沢(党中央委員会政治局委員)が同席しているのが確認されている。
会見の場で金正恩は藤本氏に「藤本さん」と日本語で呼びかけ(過去の呼称は「藤本」で尊称をつけたことはなかった)、「過去の裏切り行為は水に流す」とした上で、「これからも二つの国を行き来すればよい」と語った。会話は主に昔話に終始し、政治情勢・政局などに話題が及ぶことはなかった。中途で藤本氏の側から拉致問題の解決を呼びかけたが、金正恩は無言であったという。その会食の模様は公式カメラマンによって撮影され、うちの8枚のプリントが帰国する藤本氏に渡された。


初日の放映では、これ以上の事実は明かされなかった。昼の情報バラエティ番組だから無理はないのだが、司会者・コメンテーターから深くつっこんだ質問が出なかったのは残念である。たとえば通訳を務めた朝鮮女性の通称が「さくら」であると紹介された際(おそらくその名は、故・金正日が『男はつらいよ』シリーズのファンだったことにちなんでいる)、コメンテーターの1人が「それは帰国者です」と説明したのに、司会者側はリアクションがなかった。「1950〜80年代の帰国運動」についての基礎知識がないのではないかと思われる。
またバラエティ的な見方をすれば、写真にもつっこめたはず。すべての写真で、金正恩の頭部がもっとも高いところに来るようになっているはずだ。
李夫人と並んで写っているものでも、頭半分くらい金正恩が高い。「最高指導者よりも高い位置に人間を写さない」のは、北朝鮮の公式報道における鉄則である。番組では写真が本物であるか否かの鑑定を行っていたが、構図を見たときに「あ、これは本物だ」と私は確信した(そのことは以前にエキレビ!で紹介した『「偉大なる将軍様」のつくり方 写真で読み解く金正日のメディア戦略と権力の行方』という本で学んだのである)。

この時期に藤本氏の訪朝が実現したのは、日本国内に親朝感情を醸しだそうという狙いがあることはもちろん、大統領選がらみで韓国の反日感情が高まり、政治的示威行動が激化していることとも関係しているはずだ。敵の敵は味方であり、一気に日本国内の反韓感情を煽ることができるからである。したがって美談としてこの一件を過度に持ち上げすぎるのは危険だ。
両国の間に細いながらもパイプが通じたという事実を尊重し、いかにそれが利用できるかを検討すべきである。とりあえず明日以降の「ひるおび!」の内容には期待したいが、局に近い報道関係者だけではなく北朝鮮問題の専門家をもっとスタジオに招いて質問をさせるべきではないのか(とりあえず毎日新聞論説委員の鈴木琢磨氏にはもっと話させるべきだ)。たとえば「コリア・レポート」編集長の辺真一氏(『「金正恩の北朝鮮」と日本』)や、一貫して金正恩後継者説に反対してきた早稲田大学教授・重村智計氏(『金正恩が消える日』)の起用を希望する。政治的に失脚したという説のある金正哲の安否など、単なる「美談」以外に確認したいことは山ほどあるはずだ。

藤本健二氏の著書は以下の4点である。金正恩が国家指導の後継者であることが正式に示されるまで、氏の著書以外に金家の御曹司の素顔を伝えるものはほとんど無かった。現在に至るも、以下は貴重な資料である。金正恩の動向に関心を持つ人は、ぜひ著作にあたられることをお薦めする。
『金正日の料理人 間近で見た権力者の素顔』『金正日の私生活 知られざる招待所の全貌』『核と女を愛した将軍様 金正日の料理人「最後の極秘メモ」』『北の後継者キム・ジョンウン』(杉江松恋)