
そこでこの記事では、作品そのものの紹介というより、作品をめぐって起こった事件をいくつかとりあげることで、大島の映画監督としての軌跡をたどってみたい。
■「日本の夜と霧」突然の上映打ち切り、直後の結婚式では…
大島渚は1954年に京都大学を卒業後、松竹に入社している。当時の映画会社の撮影所では、完全な徒弟制がとられ、たとえ東大や京大出でも助監督として何年か下積みを経て、そこで才能が認められればようやく監督になれた。大島も5年間、助監督を経験したが、それでも27歳という当時の映画業界では異例の若さで監督デビューを果たしている。デビュー作の「愛と希望の街」(本来のタイトルは「鳩を売る少年」だったが、会社側に変更された)は1959年に公開された。もっとも、その衝撃的なラストなど内容が会社幹部らには不評で、その後しばらく大島は仕事を干されることになる。