〈本当に男の中の男になろうとしてゐる自分を愛さない女は女であるまい〉
と豪語する男、それが島田清次郎だ。
1919年、20歳の時に刊行されたデビュー長篇『地上』が大ベストセラーに。
天才作家としてもてはやされるも、スキャンダルにより人気は急落。
以降、奇矯な行動が目立つようになり、25歳で早発性痴呆(統合失調症)と診断され精神病院に収容され、31歳で肺結核により死去。

本書『島田清次郎 誰にも愛されなかった男』は、そんな清次郎の波乱万丈な人生を描いているだけではない。豊富なエピソードと共に、天才でも狂人でもない、等身大の清次郎像を掘り下げていく。

自信満々な言葉とは裏腹に、清次郎は恋愛下手な男だった。
子供の頃は、気に入った女の子がいれば、即アタック。
相手の意向もお構いなしに、盛んにラブレターを送っていたという。
好みのタイプは、〈進歩的で姉御肌〉。清次郎はこのタイプの女性を追いかけ続けた。でも、短い生涯の中でアプローチの仕方が進歩することも、恋が成就することもなかった。
〈某社会主義者の令嬢〉へ、自分の都合と自慢ばかり書かれたラブレターを送る。けれど、思いが伝わったのかどうかもわからぬまま、相手の父親に関係を断たれてしまう。

ファンレターを送ってきた女性と、強引に結婚。ところが、清次郎の度重なるドメスティック・バイオレンス、そして海外渡航中に外交官夫人へキスを強要したという報道が引き金となり、入籍もしないうちに故郷へ帰られてしまう。
これまたファンレターを送ってきた海軍少将令嬢と結婚しようとして、仲人を依頼する相手のいる逗子まで無理やり連れて行く。すると、誘拐・強盗・監禁・脅迫・氏名詐称の疑いで、警察に拘留されてしまう。この事件がマスコミに伝わり、人気作家からの転落のきっかけとなる。

そうした失敗を作品に何らかの形で生かせばいいのに、我が身のかわいい清次郎は、格好悪くて情けない自分をさらけ出そうとはしなかった。

たとえば、先ほど紹介した〈某社会主義者の令嬢〉への求愛が失敗した後に、令嬢をモデルにした女性を小説に登場させている。そこで彼女に、清次郎の分身である主人公へ恋い焦がれる役を与え、父親の反対に遭い自殺するという展開にして、憂さを晴らす。
それだけではない。清次郎のためを思って、傲慢な態度と作品の稚拙さを批判した友人。彼を、小説の中で本人の誠実な人柄とは真逆の悪役に仕立て上げ、溜飲を下げる。
現実を自分にとって都合のいいように捻じ曲げて描く傾向が、『地上』で脚光を浴びてしばらくすると、目立つようになる。
次第に清次郎自身からも、彼の小説からも、謙虚さは失われていく。

こんな男、愛されなくて当然だと、初めは思った。

でもよくよく考えてみると、恋愛下手ぶりは独身30男である筆者にとっても他人事ではないし、馬鹿にする資格もない。
批判を受け止められない弱さもカッコつけも、清次郎と同じ20歳そこそこの自分を思い出すと、身に覚えがあるなあと思ったり。
清次郎のこっぱずかしいエピソードの数々を読んでいく内に、自分の心の中の清次郎が「そうしたくなる気持ち、わかる、わかるぞ、清次郎!」と叫びだす。
理解不能に見えた傲慢男が、自意識過剰で未熟な青年として、身近な存在に感じられてくる。


だからこそわからない、大きな疑問が一つある。
若さゆえの過ちでトラブルを起こしただけの一介の作家が、なぜ狂人というレッテルを貼られてしまったのか?

本書のもう一つの読みどころは、これまで謎の多かった、清次郎が精神病患者として入院して以降についての考察だ。
当時の医療の精神病に対する認識や社会情勢。入院中の清次郎が書いていたという作品。清次郎の病院での様子を取材した新聞や雑誌の記事。
〈文学研究者でもない一介の精神科医〉である著者は、資料を詳細に分析する。
これまでの狂人説の根拠を根拠ではないと覆していく様は、実にスリリング。
だからといって、狂人ではなかったと性急に判断したりはしない。プロとしての公平さと慎重さに、信頼がもてる。

それにしても、清次郎の天才ならぬダメ男ぶりが明らかになった後では、狂人でないことを証明できたところで、名誉の回復になるのだろうか?
そんな心配をすることなく、等身大の清次郎が読者にも愛してもらえると信じて実像に迫る著者の筆致を、愛と呼ばずしてなんと言おう。
(藤井 勉)