テレビアニメ『サザエさん』の放送が始まって45年目に入った。これを記念して今週はフジテレビで特番があいついで組まれている。
きょう11月29日の21時からは、『サザエさん』の原作者・長谷川町子の人生を描くドラマ「長谷川町子物語~サザエさんが生まれた日~」が放映予定だ。ドラマでは、主人公の町子に名前が同じ尾野真千子が扮し、その姉・毬子をこれまた名前が一字違いの長谷川京子が、妹の洋子を木村文乃がそれぞれ演じる。

長谷川町子は人付き合いが苦手で、仕事の交渉もたいてい姉の毬子があたり、パーティなどの類いにもほとんど出ないので、友人・知人も極端に少なかったという。亡くなる前年の1991年、日本漫画家協会・文部大臣賞に選ばれ、その受賞パーティに出席したときには、出席者たちが「動く長谷川町子を初めて見た」とどよめいたという話も残っている(まあ、それ以前にも、園遊会に出席して昭和天皇と面会したりしているので、まったく表に出てこなかったわけではないのだけれども)。

その一方で、家での町子は《「お山の大将」で傍若無人、声も主張も人一倍大きかった》という。そう書くのは、長らく彼女を間近で見てきた妹の洋子だ。今回のドラマの参考文献の一つだという、洋子の著書『サザエさんの東京物語』では、意外ともいえる町子の実像が明かされている。たとえば、あるとき洋子が「少しわがままがすぎるんじゃない」と意見すると、町子はこう返したという。

《我儘というのは、我のままということでしょう。それはつまり裏表のナイ、ウソのない人ということよ。わかったか、ボケナス!》

「ボケナス!」とは、気の強いサザエさんでも言いそうにないセリフだ。例のドラマの配役が発表されたとき、いままで尾野真千子が「カーネーション」や「夫婦善哉」(いずれもNHK)などで演じてきた役柄と長谷川町子とでは、イメージが全然違うじゃないか! と思ったのだけれども、いや、この話を読むとぴったりという気がしてくる。


町子が洋子と2人でイギリスへ旅行に出かけたときのエピソードも面白い(ちなみに、長姉の毬子――本書では「まり子」と表記――は旅行が嫌いで、同行するのはたいてい洋子だったようだ)。

《飛行機が飛び立って間もなく「アッ」と叫んで青くなった。出発ロビーにハンドバッグを置いてきたからだった。外貨の持ち出しに制限のあった時代で、その貴重な外貨をバッグに全部入れていたと言って、硬直するほどショックを受けていた》

まるで『サザエさん』のアニメの「財布を忘れて~」というオープニングテーマを地で行くようなエピソードである。もっとも、歌詞にあるように、洋子はじめ「みんなが笑ってる」わけにはいかなかった。スチュワーデスがすぐに空港に電話してくれて、バッグが保管されたことは確認できたものの、洋子の所持金だけでは買い物好きの町子のお小遣いにはとても足りない。そこでロンドンに着くと、旅行会社の現地事務所に駆け込み、理由を話して何とかお金を貸してもらうことができた。

……と、ここまでは、町子本人も『サザエさんうちあけ話』で書いているのだが、この話にはまだ続きがある。借りたお金でハンドバッグを買って意気揚々と市内観光に出かけた町子が、夢中になってカメラのシャッターを切っていたところ、横に駐車してあった車がスルスルと動き始めた。よく見ると、その車のボンネットには、さっき買ったばかりのバッグが置いてあるではないか。あわてて姉妹で車を追いかけ、ドライバーからバッグを返してもらい、事なきを得たという。これまた、そのまま『サザエさん』に出てきてもおかしくない話である。


『サザエさん』に出てくるといえば、洋子は結婚して苗字こそ変わったものの、夫はマスオさんと同様、妻の家族と同居した。夫婦のあいだに生まれた娘2人を、母や姉たちはおおいにかわいがった。戦争未亡人である毬子と、生涯独身だった町子にとって、姪っ子たちは娘代わりであった。

本書ではまた、母親のすさまじいバイタリティも印象に残る。そもそも町子をマンガ家にしようと、本人に書き溜めたマンガを持たせ、『のらくろ』で人気作家となっていた田河水泡の門を叩かせたのは、母だった。《紹介者もツテもないのに、当時の第一人者を師として選ぶところが無鉄砲で母らしい》と書く洋子もまた、戦時中、大学をやめて文藝春秋社でしばらく働いていたのは、母がそう仕向けたからだった。

末の娘を物書きにしようと思ったらしい母は、彼女の作文をこっそりかき集めると、そのころ作家・菊池寛の連載小説の挿絵を描いていた姉の毬子に託し、菊池に見せたのだ。文藝春秋の社長でもあった菊池は、《女子大なんかに行くのはつまらないよ。ボクが育ててあげるから連れて来なさい》と言って、無試験で入社を認めたという。ただ、結局、洋子は病気療養のため退社を余儀なくされたのだが。

画家を目指していた毬子は、一家が戦中に東京から郷里の福岡に疎開してからも油絵を習い続けていたが、戦後、母が『サザエさん』の単行本を出版しようと「姉妹社」を立ち上げると、社長を任されてしまう。洋子は、《今でも、姉がなぜ、絵描きを断念したのかが不思議でならない》と訝しむ。


娘たちにこういう道を歩ませようと思ったら、有無を言わさず実行させる押しの強さが母にはあったということだろう。母は出版のノウハウなど皆無であったが、ふたたび東京に住むため、家を探しながら福岡とのあいだを汽車で行き来しているうち、紙問屋と知り合い、当時貴重だった紙を分けてもらう交渉を成立させ、さらに印刷屋や製本屋を紹介されて出版の手筈を整えてしまったという。その行動力には感服するしかない。

『サザエさん』の単行本は、第1巻こそ、横長の判型にしたせいで並べにくいと書店から敬遠され在庫の山をつくったものの、普通の判型で出した第2巻はよく売れ、それと一緒に1巻も売れ始めた。連載も福岡の地方紙から、「朝日新聞」の夕刊、さらには朝刊へと舞台を変え、30年近く続くことになる。

家族が総力をあげて成功をつかんだものの、その間にさまざまな苦難にも見舞われた。その点は、永遠に歳をとらない『サザエさん』の登場人物たちとは決定的に違うところだ。洋子の夫は、新聞の経済記者としてたびたびスクープをものにするなど働き盛りを迎えながら、35歳の若さでガンで亡くなった。町子も初期の胃ガンと診断され、『サザエさん』を休載して手術を受けている(ただし、町子はガンと言うと過敏に反応してしまうので、洋子は事実を隠し通して、手術を受けさせたとか)。

あれほどバイタリティにあふれていた母も、70歳をすぎて認知症が進行してゆく。頻繁に徘徊するので、家から出られないようにしたものの、マッチを擦ってくずかごに捨てるなど、目が離せない状態になった。東京郊外にある病院へ入れたが、洋子は日に日に衰弱していく母の姿から、病院側の患者に対する扱いに疑念を抱き、昔から家族がかかりつけにしていた病院へと転院させる。
そこでの温かい看護の甲斐あって、91歳の天寿をまっとうした。

姉の町子が亡くなったときには、洋子はさまざまな事情から立ち会うことができなかったばかりか、その死を他人を介して知ることになる。それについて書かれたくだりは、一面では切なく思われる。だが半面では、それまで三姉妹の末っ子として、姉たちの引いたレールの上を走ってきた人生を省みて、当時すでに新たな道を歩んでいただけに、致し方のないことでもあった。町子の死後に起こった、あるエピソードをつづる筆致には、どこかすがすがしさすら感じる。

ところで、タイトルに「東京物語」とあるとおり、本書では東京、とくに長谷川家が戦後になって居を構えた世田谷区桜新町の変遷が折に触れて描かれている。それによると、姉たちが後年、同じ区内の用賀に新築した家に引っ越してからも、洋子は桜新町の旧居に残ったという。ただ、バブルの頃に銀行に金を貸すからと強く勧められ、庭の半分にマンションを建てたそうだ。そこはもともと、母が芋畑にしなさいと言って、さほど高くない値段で買ってくれた土地だった。

アニメのなかではいまなお、磯野家の家屋が東京都内の広い敷地にデンと構えているが、あれは昭和40年代ぐらいで時間が止まったような『サザエさん』の世界ならではのことなのだろう。波平が、マンションのオーナーになって悠々自適の余生を送っているなんてことは、やっぱり想像がつかない。
(近藤正高)
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