1945年4月30日に自殺したアドルフ・ヒトラーが、2011年8月30日のベルリンで目覚める。
ティムール・ヴェルメシュのデビュー作(ゴーストライターを務めた作品がそれ以前にあるらしい)『帰ってきたヒトラー』はそういう小説だ。
ヴェルメシュは1967年、ドイツ・ニュルンベルク生まれ。長くジャーナリストや雑誌ライターとして活躍してきた人である。

小説は、自分が空き地に横たわっていることに総統閣下が気づくことから始まる。着ているものはいつもの制服(軍服)なのだが、なぜかガソリンのような臭いがぷんぷんとする。ヒトラーの遺体は、彼の自殺後に大量のガソリンを振りかけられて焼却されたとされており、この臭いは彼が生まれ変わりや、他の人間の肉体に精神だけが宿って甦ったのではない、という作者からのサインだ。ヒトラーは、妻のエヴァ(史実では総統とともに自殺)が制服の汚れを落とそうとして大量のベンジンをふりかけたに違いないと考える。

しかしエヴァはいない。マルティン・ボルマンら側近の姿もない。
そして彼は近くのキオスクに立ち寄り、新聞の日付から今が66年後の世界であることを知るのである。
再び気絶するほどの衝撃!

これはほんの序盤の展開だが、本書がおもしろいのはヒトラーが「まあ、しかたがない」とあっけなく現実を受け入れ、すぐに前向きになることだ。助けてくれたキオスクの店主を手伝いつつ、そこに腰を落ち着ける。そして、将来のために準備を始めるのだ。
なんのため? もちろん総統として祖国を正しい方向へ導くためだ。
彼の運命は思いがけないところから開ける。キオスクに立ち寄った制作プロダクションの人間に見出され、バラエティ番組に出演することになるのだ。制作側の人間は誰一人本物のヒトラーだとは気づかず(あたりまえだ)、そっくりさん芸人だと思っている。
スタジオに招かれた総統閣下は、テレビカメラの前に歩み出るといつものように「演説」を開始する。その模様はユーザーによってネット上に拡散され、閣下はあっという間に「ユーチューブのヒトラー」と讃えられる人気者になっていくのだ。
きっと日本では「総統閣下」タグのつくMADがいっぱい作られたな。

このあとの展開は実際に読んでもらいたい。非常に読みやすい本である。ドイツの国内情勢や国際政治についての基本的な事実が注記なしに書かれているが、少なくとも高校生程度の知識があれば問題なく読めるはずだ。そして、とても可笑しい。
本書の笑いのポイントは、半世紀以上の時を超えてやってきたヒトラーが時代錯誤な認識をする点にある。
たとえば彼から見れば街にはなぜか「スターバックス」なる人物の経営するカフェが溢れかえっているし、テレビ(ヒトラーの時代にはもうあった)では重要な事実がまったく報道されず、愚にもつかない番組ばかり流されている。日本のテレビでは、CM前の内容を番組再開後にダイジェストで流すという手法が一般的になっているが、どうやらドイツでも同じらしい。それを見ながら総統閣下は怒鳴るのだ。

「わかった、わかった」。私はテレビの機械に聞き取ってもらえるよう、声をはりあげた。「そんなに詳しい説明はいらない。
年寄り扱いしてくれるな!」

また、ヒトラーの目から見ると、あらゆるものが「続きはネットで」とばかりに誘導せんとする世界は奇妙なものとして移るらしい。CMも彼には不思議なものに見える。

──[……]しかもそれらの店の名前は、健常な頭の持ち主でもまず記憶できないしろものだ。どの店の名前も「www」という三文字で始まっているのは、すべての店が「www」という親会社に属しているからなのだろうか。私はひょっとしたらこれらは、ナチス政権下で国民に多様な余暇活動を提供した歓喜力行団KdFの偽名なのではないかと期待したが、KdFを率いるロベルト・ライのような頭の良い男がこんな舌を噛みそうな意味不明の名称を考えるなど、とうてい想像できなかった。

あ、urlを店名だと思っちゃったのね。
こうして作者はヒトラーに現在のマスメディアを観察させ、無知な状態からの素朴な疑問という形で批判させる。その言の幾分かは現在の日本にも当てはまる部分があるので、我がことのように感じる読者も多いに違いない。

しかし、ここで誰もが疑問を抱くはずだ。
現在のドイツではヒトラーの『わが闘争』は発禁処分、ナチスを賛美する言説も違法とされる。そのタブーの最たる総統閣下に扮するというのは、それ自体が非常に「キツい」シャレだ。しかしこの甦ったヒトラーは、自分の主義主張をまったく変えていないのである。アーリア人優先思想や、第一次世界大戦(実際には第二次まで終わっているのだが)で失った大ドイツの領土を回復するという目標を依然として掲げている。

果たしてそんな過去の遺物のような人物が、現代で受け入れられるものなのか。

受け入れられるのだ。
作者は一つ仕掛けを施している。ヒトラーと周囲の人間、双方に勘違いをさせるのだ。その最たるものがユダヤ人政策に言及することである。
ホロコーストを含む一連の「浄化」政策はもちろん絶対の放送禁止事項になっている。それゆえ周囲の人間はユダヤについて触れてくれるな、とヒトラーに告げる。もちろんヒトラーは快諾する。ユダヤ問題はバラエティ番組のような場所で口にするようなものではなく、真剣に取り組むべき課題だと考えているからだ。こうして、考えていることの方向性は正反対なのに同意が成立するという事態が出来する。
とんちんかんなやりとりがギャグになるのだが、対象となっているのは深刻な事物であり、笑った後で考えこむことになる。その繰り返しが読者の胸のうちに産み出すであろうものを、作者は狙ったのである。歴史をなかったことにせずに正視したからこそ書ける、作者の気合いのこもったギャグだ。

本書は決してアドルフ・ヒトラーを賛美する内容ではないし、読者をヒトラーに添わせることで作者が何をしようとしたかは明らかである。
ただ、すでにドイツでは電子書籍はCDブックなどを含めて130万部が売れており、影響も大きくなったことから、本書に対しては賞賛だけではない評価の声も上がっているようだ。それは「ヒトラーを小説の主人公にした」からだけではなく「ヒトラーが意外にいいやつに感じられる」小説だからである(「読者を一時的にでもヒトラーに同化させる一人称の語り口は危険だ」シュテルン誌)。
そう、総統閣下は冷静沈着であり、紳士であり、かつ聡明でもある。本書を読んでいると、その態度が魅力的に感じられる瞬間が幾度となくある。お、理想的な指導者じゃん、とか思ってしまうのである。いや、もちろん言っていることはとんでもないわけですが。これまでドイツでもヒトラーが登場する作品は多数発表されてきた。しかし、そのほとんどが彼を悪魔の独裁者として描き、人間味を感じさせる描写などは皆無だったのである。本書によってドイツの読者は虚をつかれ、動揺させられたのではないか。

本書の下巻にこんなくだりがある。
総統はある人からホロコースト行為について批判を受ける。なぜそんな非道なことができたのかとなじられた後で、こう答えるのだ。

「[……]一九三三年には国民はだれひとり、巨大なプロパガンダ的行為で説得されてはいない。そして総統は、今日的な意味で〈民主的〉と呼ぶほかない行為で説得させられてはいない。自らのヴィジョンを非の打ちどころがないほど明確に打ち出したからこそ、彼を、人々は総統に選んだ。ドイツ人が彼を総統に選び、そして、ユダヤ人も彼を総統に選んだ。[……]真実は、次の二つのうちのひとつだ。ひとつは、国民全体がブタだったということ。もうひとつは、国民はブタなどではなく、すべては民族の意思だったといことだ」

総統は「民主的」に選ばれた。その事実の重さを我がこととして受け止めよ、と本書は語る。「民主的」ってなに? と読者はページを繰りながら呟くことになるだろう。
(杉江松恋)