先週金曜(9月5日)の放送では、YMOとファッションを軸に、1980年代のバブル前夜のサブカルチャーと人々の気分を解説したNHK教育「ニッポン戦後サブカルチャー史」(講師は劇作家の宮沢章夫)。

続く今夜23時から放送の第6回のテーマは「「おいしい生活」って何?~広告文化と原宿・渋谷物語~ 80年代(2)」というもの。
サブタイトルにあるとおり、その舞台として原宿・渋谷にスポットがあてられるようだ。番組サイトでの紹介文には、「その頃、原宿には先鋭的なクリエイターが集い、一種のサロン文化が生まれていた」とある。これを読んで私が真っ先に思い浮かべたのは、原宿にかつて存在した「セントラルアパート」という伝説のマンションだ。

セントラルアパートは、JR原宿駅から表参道を東へ少し歩くと明治通りに交わる、その交差点の一角に存在した(現在の住所でいえば東京都渋谷区神宮前4丁目30番地)。1996年に取り壊されたのち、GAPなどの入るティーズ原宿がオープン、さらに現在は東急プラザ表参道原宿が建つ。いまでは現地に行ってもその面影を見出すことは難しいが、セントラルアパートには1960年代から80年代にかけて、カメラマンやコピーライターなどのクリエイター、あるいは雑誌編集部などが入居し、クリエイティブな仕事に憧れる若者にとってあこがれの場所であった。


80年代の広告ブームの立役者で「おいしい生活」のコピーの作者である糸井重里も、このアパートにあった広告制作プロダクションを経て、1979年の独立後は「東京糸井重里事務所」を同所の6階に構えた。ちなみに先日の拙記事でとりあげたピンク・レディー末期のシングル「ラスト・プリテンダー」(1981年)は、作詞者の糸井も、ジャケット写真を撮影したカメラマンの鋤田正義も、ジャケットのアートディレクションを手がけたデザイナーの奥村靫正も、みんなセントラルアパートに事務所を構えていた。同シングルの作曲者である高橋幸宏ほか、YMOのメンバーもしょっちゅうここに出入りしており、当時のセントラルアパート人脈に属する。先週の「ニッポン戦後サブカルチャー史」でも言及された、YMOの2nd.アルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」のジャケット写真も鋤田によるものだ。

君塚太編著『原宿セントラルアパートを歩く』(河出書房新社、2004年)は、鋤田のほか、同じくカメラマンの操上和美・浅井慎平、イラストレーターの宇野亜喜良、「話の特集」編集長の矢崎泰久、「NOW」編集長のオキ・シローと、かつて同所に入居していた6人のインタビューを収録、往時のセントラルアパートにさまざまな人々が集い、結びつくことでさまざまなものが生み出されていくさまを伝える。

本書で元入居者たちが口々に語っていて印象深いのは、ある時期まで原宿は何もなくて静かな街だったということだ。
1962年に入居した操上和美によれば、当時セントラルアパート周辺に食事をしたり酒を飲んだりする場所はあまりなく、飲みに行くのは新宿や六本木に足を延ばすことがほとんどだったという。そのうちに建物のなかに料理店など店舗が入るようになったとはいえ、周辺はさほど変わらなかったらしい。

セントラルアパートが竣工したのは1958年。原宿駅を挟んで、その西側に位置する現在の代々木公園は、戦前の陸軍の代々木練兵場であり、敗戦後はアメリカ軍に接収され、ワシントンハイツと呼ばれる駐留軍とその家族の暮らす宿舎地となっていた。これが日本に返還されるのは1963年、東京オリンピック開催の前年のこと。五輪開催にあわせて、その跡地には選手村(現・国立オリンピック記念青少年総合センター)や国立代々木競技場が建設された。
開催の翌年には、その一角にNHK放送センターができ、運用を開始する。

原宿にはこうした来歴から戦後まもなく、米軍関係者向けの店舗が次々とオープンした。現在もあるキディ・ランドはその一つである。そしてセントラルアパートもこの来歴と無関係ではない。というのも、もともとは外国人向けの高級賃貸マンションとして建てられ、実際、入居者の大半は米軍関連の貿易商など外国人だったからだ。

原宿が若者でにぎわうようになるにはもう少し時間がかかった。
むしろ若者でにぎわうようになり、セントラルアパートが観光地化すると居心地の悪さを感じて、離れていくクリエイターもいた。元入居者たちの証言を読むにつけ、セントラルアパートの黄金期は1980年代よりも前、オリンピックの前後から70年代あたりだったのではないかと思われる。

セントラルアパートに集ったクリエイターには、セントラルアパート内にラボ(現像所)が入っていたこともあり、とくにカメラマンが目立つ。一時期はさながら写真家版「トキワ荘」の様相を呈していたらしい。ただし、家賃の高さや、入居者がすぐに才能を開花させたことは、トキワ荘とはちょっと違うが。ともあれ、彼らは日々切磋琢磨しながら腕を磨いていった。
『原宿セントラルアパート』所収のインタビュー中、操上和美は、セントラルアパートを、若きクリエイターたちの「青春の灯が燃えたヴィレッジだった」と語っている。建物の中庭が吹き抜けになっていたので、向こう側のフロアで仲間が仕事をしているのもよく見えた。

《夏なんかみんな開けっぱなしで仕事していましたし。本当に長屋みたいでしたね。/ヴィレッジなのに、なあなあにならない不思議な空間。みんながんばっている時代だったから、それぞれが姿勢を正していたんですよ。
(中略)別に集まってワイワイやっていたわけじゃなかったですが、誰が最近いい顔をしているとか、あいつはカッコ良くなったとか、伝わってくるじゃないですか。そういう空気でお互いにセッションしていたんでしょうね》


他方、浅井慎平は、写真の世界に入ったものの、自分がやりたいと思うことは何でもやりたいという気持ちが強かった。ラジオやテレビにも積極的に出演し、業界内では批判もされたという。それでも浅井は突っ張り続けた。浅井にかぎらず、イラストレーターだった横尾忠則など、それぞれ本業とする表現手段はあるものの、ほかのジャンルやマスメディアにも出かけてゆこうという若い優秀なクリエイターたちは少なくなかった。

《セントラルアパートというのは、その一つのシンボリックな空間、あるいは時間だったんだと思います。戦場としては非常に恵まれた場所だった。地理的にもそうだったし、あの建物自体にそういう考え方の人達が集まりやすいテイストがどこかにあったのでしょう》(前掲書)

セントラルアパートにあって、異なるジャンルをつなぐ役割をとくに果たしたのが「話の特集」という雑誌の編集部だった。同誌は1965年に創刊、一度立ち退きを理由に新橋に移ったが、のち69年に復帰、80年代半ばまでセントラルアパートに編集部を構えた。編集長の矢崎泰久がインタビューで語った次のようなエピソードには、当時の原宿の街の独特な雰囲気が伝わってくる。

それは、「話の特集」で作家の北杜夫と女優の吉永小百合の対談を収録したときのこと。いつも使っている編集部の和室を使っても、2人は全然しゃべらない。それに頭を抱えた矢崎は、原宿駅前でクラブ「コープオリンピア」を営業していた松竹歌劇団の元スター・水の江滝子に連絡、店を使わせてくれるよう頼んだ。対談の進行にも水の江に協力を求めたところ、さすが日活映画のプロデューサーとして吉永出演の映画、また北の原作映画も手がけた経験を持つ彼女とあって両者とも信頼を置いたのだろう、話ははずみ、面白い対談となったという。

「話の特集」では和田誠がアートディレクションを務め、タレントの永六輔や作曲家のいずみたくなどからは資金面でも支援を受けていた。上の階に入居していた糸井重里には、かなり早い時期にエッセイを依頼している。仕事を頼んだわけでもないのに、萬屋錦之介や太地喜和子など大スターがひょっこり顔を出すこともしょっちゅうであったらしい。タモリもデビューまもないころ、「話の特集」編集部に半ば居候していたことがあるという。なお浅井慎平の自伝的小説『セントラルアパート物語』(集英社、1997年)には、浅井の分身である主人公がタモリに寺山修司のモノマネを教えこむ場面が出てくる。

ひとつのマンションの歴史を語っているだけなのに、戦後日本のサブカルチャーの歴史があらかた語れてしまうというのは、ちょっとほかに例がないのではないか。そんなふうに、時代の先端を行くさまざまな人々が出入りしていたセントラルアパートにも終焉のときがやって来る。

セントラルアパートが取り壊されたのは、先述のとおり1996年だが、クリエイターたちの集うマンションとしての役割はすでにその10年前に終えていた。その原因には先述したように、原宿が若者の街となったということもあるし、建物自体が老朽化し始めたことも大きい。だが、とどめを刺したのはバブル期の地上げだった。「話の特集」編集部は、立ち退きの通告が来てガスや電気を止められても、かたくなに抵抗した。最後には、暴力団まがいの者たちが来て脅されたという。抵抗もむなしく、渋谷に移転したのは1986年のことだ。

浅井慎平は、セントラルアパート時代を振り返り、《夢中でやっているんだけえど、幻みたいなところもあって……》とも語っている。セントラルアパートが、王道ではない、あくまで“サブ”に位置する文化の発信地であったことはまちがいない。が、それはコマーシャルベースやマスメディアに乗ることで、クリエイター幻想ともいうべきものを生み出すことにもなった。バブル期はそれが最大限に肥大化した時代でもある。そんな時代にセントラルアパートからクリエイターが消えていったのは、何だか象徴的だ。
(近藤正高)