“ほんのそこまでのつもりでいたのに ― 気ずいた時には 見知らぬ国 ― はるか地の果て さすらってたのに ― ふと立ち止まれば いつものここ”(1.『アベマリーア!』より/動画はこちら

10代の頃から20年以上も日本全国を放浪し、沖縄で2年ほど野宿生活をした時期もあった。ボサノヴァにのめり込んでは実際にブラジルまで出向き、サントゥールという打楽器に惚れてインドへも訪れた。
そして40歳で故郷の埼玉県秩父市へと戻ってタクシードライバーとなり、今年の6月に60歳でCDデビュー……。
60歳で“発見”されたボサノヴァ・ミュージシャン「タクシーサウダージ」
長瀞渓谷で歌うタクシーサウダージ。タクシー運転手として勤務する際も車にギターを載せている

タクシーサウダージの1stアルバム『Ja-Bossa』は、そんな彼の人生の軌跡を思いおこさせるような『アベマリーア!』の上記の歌詞から始まる。「60歳にしてデビュー」と聞くと色物のような印象を持つ人もいるかもしれないが、その年輪を感じさせるように太く低く、かつ透き通るような歌声と、生々流転の儚さを歌うような歌詞に触れれば、“これは本物だ”と誰もが気づくだろう。

「ギターを弾き始めたのは高校生の頃で、3カ月くらいで作詞作曲も始めて。最初はジョルジュ・ムスタキというシンガーを好きになったんだけど、彼が歌う『三月の水』を聞いてから、ボサノヴァに惚れ込んだ。ミュージシャンになる気は特になかったけど、放浪中も音楽はずっと聞いていたし、ギターもよく弾いていたね」

“はじめは遠い海鳴り 穏やかな道たどれば ― いつか来た懐かしいあの浜辺 ― それがボサノバ探していた場所 ― 子供のように心裸で 夕凪のようなしずけさ ― 譜面の中に収まりきれない満ち溢れるほどのやさしさ”(5.『ディサフィナード』より)

探し求めていた音楽=ボサノヴァとの出会いを果たし、特にジョアン・ジルベルトに惚れ込んだが、「ブラジルの言葉で歌えばブラジルの人のほうが上手だし、日本語の歌詞で歌ったものにもいいものがない」という苛立ちもあった。
そこで原曲を繰り返し聞き、歌いながら、自ら作詞作曲する日本語のボサノヴァも作り始めた。このアルバムでも『ディサフィナード』『イパネマの娘』(動画はこちら)などボサノヴァの名曲を歌っているが、日本語詞の作詞は自身で行っている。
「名曲を直訳して歌うだけでは日本語のボサノヴァとは言えないし、自分で作詞作曲をしても、イントネーションやアクセントの置き方、コードの展開が少しでも納得いかないとボサノヴァにはならない。初めて『日本語による自分のボサノヴァ(Ja-Bossa)ができた!』と思えたのが、30代の頃に作った『アベマリーア!』だった」

40歳で故郷に戻り、タクシードライバーとなってからも仕事の合間にギターを取り出しては歌っていたが、ここ数年は「もうギターもいいかな」と思い始めた時期だったそうだ。
60歳で“発見”されたボサノヴァ・ミュージシャン「タクシーサウダージ」
自ら運転するタクシーの前で。撮影したのはご自身の息子さん。

「そんなときに、偶然お客さんとして乗車してきた笹久保伸さんという秩父在住のミュージシャンと知り合いになって。曲を聞いた彼の紹介がきっかけで、アルバムを作ろうという気持ちになったんです」

“思い出せば昨日のことのようさ あの愛に満ちた日々は ― けれど過ぎた日の いったい何が 残ったの 風の中 ― あの日の街角 今は見知らぬ顔 キスしたのはこの場所 ― 教えておくれ あの愛の日々の ― いったいなにが残ったの”(11.『愛のわすれもの』より)

海、打ち寄せる波、アフリカの地平線、イパネマの砂浜を歩く妖精のような娘………そんな美しいものの儚さを歌ったアルバムは、『愛のわすれもの』の歌の後、波の音で幕を閉じる。


「人生でいろいろなことがあっても、砂浜の足跡が消えさるようにその人は消え去り、最後は波だけの音だけになる。時間の中で消えていくもの、終わりのあるものに惹かれちゃうんだよね。何かを美しく感じたり、人を愛おしく感じたりするのも、命に終わりがあるからでしょ? 花は美しいけど、やっぱり造花だと味気ないじゃない」
60歳で“発見”されたボサノヴァ・ミュージシャン「タクシーサウダージ」
TAXI SAUDADE『Ja-Bossa』アオラ・コーポレーション 2800円 発売中

なお定年を経た現在も、嘱託としてタクシードライバーの勤務を続けており、「会社に連絡をいただいて、タイミングが合えば秩父をタクシーでご案内します(案内してほしい方は電話にて※数日前に要予約/秩鉄タクシー0494-22-2316、0120-23-1624)。ご要望があれば1曲くらい歌いましょうか」とのこと。山々に囲まれ、長い伝統と産業の栄枯盛衰の影を残すこの街を巡れば、彼の歌に流れる“サウダージ”(郷愁、憧憬、思慕)をより深く体感できるはずだ。
(古澤誠一郎)

・12月11日「サラヴァ東京」でライブ予定 東京都渋谷区松濤1-29-1 クロスロードビルB1