CS「ファミリー劇場」にて、昨年から今年にかけ『アメリカ横断ウルトラクイズ』の再放送が矢継ぎ早に放送されている。第12回、第13回、そして第11回大会の熱戦が、四半世紀ぶりに蘇ったのだ。

個人的にはDVD化を待望していたものの、反面「無理だろう」と半ば諦めていた番組でもある。何しろ、素人参加番組の決定版。ソフト化へ至るまでには超えなければいけない障壁が多過ぎるし、それらを乗り越えるのは不可能な芸当に近い。(サンプリングを駆使しまくったフリッパーズ・ギター『ヘッド博士の世界塔』の再販が難しいのと同じ状況)

不思議な錯覚が起こる


そんな映像が、ここに来て再放送されたのだ。しかもその中に、第13回大会(1989年)が含まれているという喜び。過去の歴史のなかフェイバリットに挙げる愛好家も多く、あまりにファンが多いため某掲示板では「13回厨」なる言葉(蔑称)も生まれるほどの記念回である。
ではこの「第13回」がどのようなパワーを孕んでいたか、いくつかのエピソードを元に振り返りたい。

ボルティモアに“奇跡の4人”が揃った「第13回アメリカ横断ウルトラクイズ」は何一つ色褪せてない
クイズ研究会の上位進出を苦々しく思っていた制作側も、ボルティモアの4人に関しては「奇跡」と認めざるをえない。のちに福留は、長戸に「決勝は長戸と田川にしたかった」と打ち明けているという。
(※画像は「QUIZ JAPAN vol.1」ほるぷ出版より)

まずこの回の優勝者、すなわちクイズ王・長戸勇人氏が1990年に刊行した『クイズは創造力<理論編>』(情報センター出版局)が世の少年少女に与えた強烈な影響力について説明しようと思う。
当時、リアルタイムの放送にショックを受け、録画したビデオテープ(全5週分)を繰り返し鑑賞する少年少女は全国に多数存在したはずだ。こんな生活を送っていれば、出題される問題と答えは自然に暗記してしまう。ここで、不思議な錯覚が起こる。「俺って、クイズ強いんじゃない?」。
何たる、浅はかさだろうか。
「福留功男からのクイズ出題」→「参加者による解答」というくだりを何度も観てるのだから、画面の中の達人らより早押しも正解率も上回るのは当然。蒼さゆえの錯覚だと見逃していただきたい。そして、夢を見る。「自分も将来、クイズ王になれるのでは?」。

しかしどのように鍛錬すればいいか、やり方がまるでわからない。そんな時に発表されたのが、前述の『クイズは創造力<理論編>』であった。
小6の秋、第1回ウルトラクイズの放送に衝撃を受けた長戸少年がどのようにクイズの腕を磨いていったか、そのhow toが同書には親切にも記されていた。
早押しの練習法、『アタック25』を観つつ実戦さながらクイズ問題に触れる環境づくり、情報ソースの選び方など。「ウルトラクイズの時事問題はここから数多く作られている」と聞き、ワケもわからぬ中学生当時の記者も「ダカーポ」を定期購読していたっけ。当時、本当にそんな中高生は全国に多数存在していたのだ。まさに、夢見る少年少女にとっての参考書。結果、クイズ本としては異例の10万部を超えるベストセラーを同書は記録したと聞いている。

ちなみに『アメリカ横断ウルトラクイズ』の第11~13回まで、すべて立命館大学クイズ研究会出身者が優勝を果たしている。当時、私の周囲には立命館大学進学を夢見るクラスメートが3人もいた。埼玉の中学校にもかかわらずだ。

自然にタイムスリップ


この熱狂には、もちろん理由がある。13回大会は、当時の子どもたちを熱狂させるに十分な密度の濃さを誇っていた。「この高みに登りたい」と、憧れるには十分のクイズ戦。中でも伝説になっているのは、準決勝・ボルティモアでの「通せんぼクイズ」である。
今回の再放送で数年ぶりに観返したが、その衝撃は何ら変わらない。26年前の中学生時代に、あまりにも自然にタイムスリップしてしまう。問題だって答えだって、私は未だに覚えていた。何一つ、色褪せてない。
ここで、同番組の総合演出を務めた加藤就一氏のコメントを引用しようと思う。
「13回準決勝のボルティモアは、個性立てがちゃんと4人にできた。
珍しい『奇跡の4人』だった」(ファミリー劇場『今だから話せるウルトラクイズ丸秘証言集』より)
多くの視聴者が“主人公”と捉え、その姿を追っていた立命館大学クイズ研・長戸。異常に勝負強く、誤答を恐れず早押しの世界を構築してしまうハンドパワー・永田。斜に構え、それでいて異常に長戸をライバル視する秋利。ボタン押しは極めて遅く、しかし解答権を獲得すれば100パーセントの確率で正解をゲットしてしまう“考えすぎのコンピューター”田川。

このボルティモアでは、決勝進出者の2名が絞られるまでに60分以上の時間を要したという。何しろ、長戸が通過席に着いたのは計8回。それまでの7回は、通過席に着くたびに他の解答者(主に秋利)に阻止されていたのだ。
長戸 僕はもう、途中でイヤになりましたけどね。抜ける気がしないんですよ。「また、アカンのかな」みたいな(苦笑)
秋利 止められると思ってました(笑)。
(ファミリー劇場『今だから話せるウルトラクイズ丸秘証言集』より)

しかしこの熱狂の番組も、3年後の第16回大会を最後に終了してしまう。クイズ王を目指していた我々にとっては寝耳に水の“事件”だったが、その不安要素は13回の戦い模様に密かに見え隠れしていた。
「(ウルトラクイズの参加者が)千人、二千人、四千人の時とかは、当然含まれているクイズマニアの年齢層が高いでしょ。だから残ってくるのも味わいのある、5回の時の『火消しのやっさん』みたいなのがいて、若いやんちゃなのがいて、おばさんがいて、マドンナとか言われる若い女の子がいて……みたいな人間社会のいろんな年齢層がいるから。(中略)押しなべて言うと10回超えて、11、12、13、14、15と段々数字が下がってきたのと、クイズ研の割合がどんどん増えていってるっていうのがシンクロして行って」(総合演出・加藤就一氏 「QUIZ JAPAN vol.1」より)
普段からクイズ研究を怠らないマニアのみ辿り着ける高みを構築し、個性より知識量が際立つ世界観に。いつの間にか、同番組の意味合いは変容していた。

13回に肩入れしてしまう


司会者である福留功男氏も、13回大会を振り返りこんなコメントを残している。
「ボルティモアは、たしかに盛り上がった。でも僕自身の気持ちの中では、ウルトラクイズに限界を感じた瞬間だったんですね。理由は簡単で、マニアック。クイズ研究会同士の闘いになったことは、僕としては納得できてない。そうすると、他の一般の方々が尻込みするじゃないですか。『ここが限界かな』と自分自身で感じたから、次の年(実際は翌々年)に僕は引退する」(ニッポン放送『大谷ノブ彦 キキマス!』2015年2月4日放送より)

だが、どうしたって私は13回に肩入れしてしまう。参加者の“人間的魅力”と“技量の高さ”がギリギリのバランスで成立していたのは、やはりこの年ではなかったのか。1989年に衝撃を与えられた「13回厨」からすると、実力も個性も両立させたこの回は紛れもなく奇跡である。

あの“伝説のボルティモア”では一進一退の攻防が繰り広げられ、40分が経過した頃には問題数も140を突破。用意した問題は底をつき、新しい問題をおろすため途中で一時間以上の休憩が挟まれたという。その時、実際に福留は4人に向けてこんな言葉を発している。
「13年のウルトラの歴史の中で最高の戦いだ」
(寺西ジャジューカ)