昨今、新日本プロレスが好調だ。業界でひとり勝ち状態と言っていい。
要因はいくつかあるのだが、その一つに「新陳代謝がスムーズに行った」ことが挙げられると思う。
“格”が重視されるプロレス界。その序列を入れ替えるには莫大なパワーを要するが、新日は断行する。突破口となった中邑真輔がIWGP王者に輝いたのは、若干23歳の時。この最年少戴冠記録は、いまだ破られていない。
そして現在、同団体でトップを務める「レインメーカー」オカダ・カズチカは、28歳。
昨年の天龍源一郎引退試合にて“介錯人”を務め、評価と認知度は高まる一方である。

90年代にも「レインメーカー」はいた


ところで皆さん、この「レインメーカー」なる言葉の意味をご存知だろうか? 意訳すると「金の雨を降らせる」。
要するに、所属団体を潤わす選手のことだ。観客動員、グッズ売り上げ、その他諸々の権利関係等によって、利益をもたらすスター。このような人材になるには、もって生まれた才能と強さ、人気が不可欠になってくる。

ここで、90年代の新日本プロレスを振り返りたい。坂口征二社長(当時)が指揮を執る新日本プロレスのスケールは、ぶっちゃけ今とは比較にならなかった。
全国ドームツアーという無茶を敢行し、見事成功を収める。当時、「ドームツアーを決行できるのは、新日本プロレスとglobeとK-1とエアロスミスくらいしかいない」と言われていたが、それほどの集客力を同団体は誇っていた。
この頃の新日本プロレスを人気面で牽引していたのは、まぎれもなく武藤敬司。当時のレインメーカー的役割を担っていた。

若手時代から別格だった武藤敬司


武藤が新日本プロレス入りしたのは、1984年。21歳というプロレスラー志願者にしては遅い入門であったが、これには理由がある。
高校卒業後に東北柔道専門学校へ進学した武藤は、持ち前の身体能力を発揮。
国際強化選手に選ばれるまでの活躍を見せ、なんと晩年の木村政彦からも指導を受けているとのこと。専門学校卒業後は骨接ぎの仕事に就くが、プロレス界と親交のある先輩の後押しを受けて入門……という道筋を辿っているのだ。

当時、新日道場には若干15歳の船木優治(現・誠勝)も練習生として名を連ねており、大学中退後に入門した蝶野正洋と武藤の2人は飛び抜けて年長の部類。この環境のなかで延々繰り返される地味な練習に、いきなり武藤は音を上げてしまう。そして、コーチ役であった山本小鉄に「すいません、辞めますわ」と発言。
ふるいにかけ、残った者だけがデビューできるプロレスラー。
去る者は追わずが当たり前な世界のはずだが、この時の山本は武藤の夜逃げを「もうちょっと頑張ってみろ」という言葉で制止。それほどの逸材であったということだ。

武藤敬司が目をかけられた要因


武藤が目をかけられた要因は、多々ある。まず、身長。武藤らより一世代上にあたる藤波辰爾(182cm)や長州力(183cm)に比べ、武藤(188cm)は頭一つ大きい。
そして、甘いマスク。新日本プロレス創始者であるアントニオ猪木自身が実は“ルックスの人”という側面を持っており、藤波、佐山、前田、高田とマスクの良い人材を推してきた歴史がある。
もちろん、武藤もその期待に応えるであろう逸材。興行会社の方針として、正しい判断である。
そして、強化選手に選ばれるほどの柔道歴。実は、坂口征二(全日本柔道選手権優勝)、アレン・コージ(柔道銅メダリスト)以来の猛者であり、新日本プロレスの歴史上でもトップ5に入る実績の持ち主と言っても過言ではない。
しかし武藤が最も注目されたのは、佐山聡(初代タイガーマスク)以来の運動神経であった。佐山より体は一回り以上大きいにもかかわらず、若手時代からムーンサルトプレスを多用していた。


タッパがでかい、ルックスがいい、ガチが強い、魅惑の動きができる。この四拍子が揃った選手など、世界のどこを見渡しても武藤以外に見当たらない。

日本のファンに受け入れられなかった武藤敬司


当然のごとく、同期の一番手として海外遠征へ出された武藤。何しろ、蝶野と橋本真也が海外遠征へ旅立ったのは1987年。一方、新日が社運を賭けて売り出す新キャラクター「スペース・ローン・ウルフ」として武藤が海外から帰国したのは1986年なのである。

しかしこの時の凱旋帰国、とてもファンから受け入れられたとは言いがたかった。当時の日本マット界はUWFによる“格闘プロレス”が席巻しており、武藤が志向するアメリカンプロレスが受け入れられる土壌はどこにもなかったのだ。
ケチのつけ始めは、帰国初戦。この第一戦で相手を務めた藤波とは、試合のリズムが全く噛み合わず。試合後、マイクで「どうして俺の負傷箇所を攻めなかったんだ!」とダメ出しされる始末であった。問題のUWF勢と試合で絡む時も、なぜか武藤が集中砲火で蹴飛ばされ続ける状況が続く。

決定的だったのは、1987年8月20日の両国国技館。「猪木&X―長州&藤波」なるカードが事前発表されていたこの日。ファンはXを「坂口か?」「マサ斉藤か?」と予想していたが、現れたのは武藤であった。途端に、場内に渦巻く「帰れコール」。猪木の若手育成術に「重大な試合のパートナーに若手を起用しチャンスを与えるも、それを活かせないようなら自分がおいしいとこを全部持っていってしまう」というのがあるが、この時の武藤はモロにその被害者となってしまった。

そして、二度目の海外遠征へ……。

アメリカでトップに 逆輸入される武藤敬司


再び海外へ旅立った武藤は、「アメリカで一人でやっていく」という覚悟を胸に各地を渡り歩く。そして、当時のアメリカ二大団体の一つ・NWAに遂に発見された。
瞬く間に、NWAのトップヒールとして全米のトップへと躍り出た武藤敬司。リングネームは、「グレート・ムタ」だ。

当時は、インターネットがない時代。日本のファンへ伝わる情報は、時たま専門誌でリポートされる海外リポートのみ。その限られた報道により、世界規模のトップであるリック・フレアーと互角の攻防を繰り広げるムタの勇姿を稀に垣間見ることができた。
「世界のチャンピオン名鑑」なる企画ページでは、ハルク・ホーガンやフレアー、スティング、アルティメット・ウォリアーらと並び「NWA世界TV王者 グレート・ムタ」と紹介される武藤。
どれだけ祖国のファンが妄想を膨らませ、期待値を上げていったか。

一方その頃、新日本プロレスは窮地に陥っていた。期待の星であった船木は新生UWFへと移籍し、先に帰国していた蝶野&橋本は思うような活躍を見せられない。
前回の状況とは、明らかに違う。武藤を迎え入れる土壌は、整いすぎるほどに整っている。嫌がる武藤を何とか説得し、新日は救世主を凱旋帰国させた。

現在の新日本プロレスは1990年4月27日から始まった


1990年4月27日、NKホールにおける帰国第一戦は、タッグマッチ。しかも、タイトルマッチ。パートナーは、デビュー戦の相手でもあった同期の蝶野正洋。対戦相手は、マサ斉藤と同期・橋本真也が組んだチャンピオンチームであった。

この時の武藤は、赤のショートタイツを穿いて登場。あまりの格好良さに女性ファンからの歓声が凄かった。そして試合が始まるとファンは度肝を抜かれる。
惚れ惚れするようなステップによるロープワーク。橋本のミドルキックを前転でかわし、くるっと飛び上がってのローリングソバット! エルボードロップを落とす速さには、まるで目が追いつかない。

とにかく、「今まで見たことのない動きを見せた」というインパクトが響いた。フィニッシュとなったムーンサルトプレスの飛距離も、信じられないレベル。当然、武藤&蝶野組が新王者となり、明るい未来を見せての大団円だった。この日の試合を生で観に行ったクラスメートが、翌日「武藤が凄くなって帰ってきたんだよ!」と顔を真っ赤にして演説する光景を筆者は今でも忘れられない。

上野毛にある新日本プロレスの道場にはアントニオ猪木の写真パネルが貼りだされていた。……が、現在は外されているらしい。「100年に1人の逸材」を自称する棚橋弘至が外したそうだ。これは、アントニオ猪木からの脱却を意思表明したということなのだろう。
しかし試合スタイルに関しては、とっくの昔に脱却している。それは、1990年4月27日。武藤の凱旋帰国によって、目指す方向は完全に舵が切られた。
現在の新日本プロレスに、今さら“猪木イズム”も“UWF的思想”も無い。それよりも、武藤が生み出したスタイルからの影響を色濃く感じる。
「そうだよ。新日本の今のレスリングの形態は、みんな俺のパクリだからね。全部、俺のパクリだよ。ロイヤリティ貰いてえよ」(武藤敬司による発言 KAMINOGE vol.30より)

武藤の存在に憧れ各団体へ入門した世代がトップを張っているのが、現在のプロレス界の状況である。

アントニオ猪木に良いところを全く出させないグレート・ムタ


蝶野正洋がブレイクするまで、新日本プロレスのグッズ売り上げは、武藤(ムタ)と獣神サンダー・ライガーがダントツであったという。“強い”、“面白い”、“美しい”という人気選手に不可欠な能力を何要素も兼ね備えていたのだから、当然だ。

特にグレート・ムタは、本人に「武藤敬司はムタに負けている」と言わせるほどファンからの注目を集めた。とは言っても、武藤もムタを有効活用している。
当時はまだまだ厳しかった縦の序列も、ムタに変身してしまえば関係ない。1992年、長州力にグレート・ムタとして挑んだIWGP選手権。この試合でのムタは、王者のペースに一切付き合わず延々と長州をなぶり殺ししてしまう。ムーンサルトプレスで勝負がついた後、あろうことか長州が横たわるリング上に消火器を撒き散らすムタ。試合後、嘔吐しながら長州は「あんな奴って、いるんだな……」と混乱を隠せなかった。

1994年に福岡ドームで行われたアントニオ猪木vsグレート・ムタは“異次元対決”と銘打たれたが、リング上は完全なるムタの世界に。緑の毒霧で顔を染められ、その上、流血による朱の色が被さった猪木の顔面。リング上でもリング外でも好き勝手し放題の挙句、スリーパーであっさり3カウントをとられるムタの振る舞いに猪木は本気で激怒。結果的に猪木のいいところを全く出させず、世界観で圧倒してみせている。猪木の“武藤嫌い”の遠因ともなっている試合である。

これらの試合のインパクトは当然ファンの興味を呼び、会社側からもここ一番におけるムタ参戦の要望は引っ切りなしであった。

会社に成功体験を植えつけた 1995年の武藤敬司


武藤が初めて「新日本プロレスの代表」を意識したのは、1995年10月9日の東京ドーム。敵対関係にあったUWFインターナショナルとの対抗戦である。

この日、武藤は新日本プロレスの大将格として高田延彦と対戦する。当時は武藤がIWGPチャンピオンだったので大将格に着くのも当然に思えるが、事はそう単純ではない。相手は、先進的格闘集団・UWFインターナショナル。どんな“仕掛け”を不意に放ってくるか、油断も隙もない状況。しかも、相手は「最強」を名乗る高田延彦。
ここでメインを任せるには、腕に覚えのある選手じゃないといけない。誤解を恐れず言うと、万全を期して武藤なのだ。橋本、蝶野、健介より、確実に信頼が置ける。

当時の現場責任者・長州力には、UWFの象徴的存在・前田日明に顔面を襲撃された過去がある。一度目の凱旋帰国時、武藤にはUWFに苦い水を飲まされた過去がある。その怨念と万全の用心を胸に秘めての武藤出陣は功を奏し、なんと前時代的なフィニッシュホールドであった足4の字固めで高田からギブアップをゲット!

実はこの時、新日本プロレスも経済的に瀬戸際の状況にあったそうだが、そのマイナスを一日で大黒字に逆転してみせている。そしてこの成功体験が、のちに「ドームプロレス」と呼ばれるほどドーム興行を乱発させる契機となってしまった。それほどに甘い蜜が、この日の売り上げにはあったということだ。

試合後の武藤は「新日本プロレス、凄い団体です」なるコメントを発していたが、その団体を潤わせていたのはまぎれもなく武藤本人である。
(寺西ジャジューカ)