唐突ながら、まずはお詫びと訂正から。きのう掲載のサミット関連記事の末尾に、私はうっかり「今晩開催される予定の晩餐会」と書いたが、これは調査不足による事実誤認であった。
実際には伊勢志摩サミット、というか7年前からサミットでは晩餐会は行なわれていない。代わりにワーキング・ランチとワーキング・ディナーが日程に組み込まれるようになった。
なぜサミットから晩餐会は消えたのか。転機は洞爺湖サミットだった
西川恵『饗宴外交 ワインと料理で世界はまわる』(世界文化社、2012年)。著者は毎日新聞社の外信部で長らく記者を務めた経験から、同書のほか『エリゼ宮の食卓―その饗宴と美食―』(新潮社)をはじめ『ワインと外交』(新潮新書)など、国際政治を食という切り口からとらえた好著をものしている

外務省の発表(PDF)によれば、昨晩(5月26日夜)、G7首脳に供されたワーキング・ディナーのメニューは「海の幸、トマトの魅力をさまざまな形で」との趣向による前菜をはじめ以下のようなものになったという(ワインなど飲物の記載は省略した)。

・伊勢海老クリームスープ カプチーノ仕立て
・鮑のポワレ あおさ香る鮑のソース
・伊勢海老ソテー ポルト酒ソース 米澤モチ麦のリゾットとともに
・伊勢茶の香りをまとわせた松阪牛フィレ肉 宮川育ちのワサビを添えて
・ミルクチョコレートと柑橘のマリアージュ

そのメニューは、晩餐会や午餐会のように食事を楽しむというよりは、実務的なものだ。参考までに8年前の洞爺湖サミットでの晩餐会のメニューもあげておこう(「毎日新聞」2008年7月8日付および後述の西川恵『饗宴外交』を参照)。

・八寸 流水膳七夕飾り(和牛冷しゃぶ昆布風味アスパラ・ゴマクリーム、ハマグリ・トマト・大葉のゼリー寄せ、車海老の土佐酢ゼリー寄せなど)
・オホーツク産毛蟹のビスク カプチーノ仕立て
・きんき塩焼き たで酢
・乳飲仔羊背肉のポワレ香草風と仔羊鞍下肉のロースト、セップと黒トリュフ風味
・熟成チーズ各種とラベンダーの蜂蜜、ナッツのかるいカラメリゼ添え
・ファンタジーデザートG8(ユリ根ムースのゼリー寄せ、水ようかんなど)
・コーヒーと果実と野菜のコンフィ

これに加え、ワインなどの飲物が用意された。
今回のメニューもたしかに豪華ではあるが、それでも品数からいえば洞爺湖サミットのほうが上回る。

サミットからなぜ晩餐会が消えたのか? ここでは、西川恵の『饗宴外交 ワインと料理で世界はまわる』(世界文化社)を主に参照しながら、そこにいたるまでの経緯を説明してみたい。

親日家の仏大統領を感激させた沖縄サミットの晩餐会


『饗宴外交』では、日本の主催したうち、饗宴という点からもっとも成功したサミットとして2000年7月の九州・沖縄サミットに一章が割かれている。それによれば、このときのサミットの晩餐会は、首脳会合の沖縄開催を決めた小渕恵三のイニシアチブのもと(残念ながら小渕は開催2カ月前に亡くなってしまうのだが)、総合監修の安倍寧(音楽評論家)や料理担当の辻芳樹(辻調理師専門学校理事長)らを中心に準備された。

安倍寧はまず晩餐会で出す料理を「パシフィック・リム(環太平洋)系料理」に決めた。沖縄料理では首脳によって好みも分かれるだろうし、かといって純日本料理では沖縄の人に失礼だ。そこで沖縄の地政学的な位置づけから方針が定まったという。


準備期間中には、日本通として知られるシラク仏大統領がこの話を聞きつけ、「日本にはすばらしい日本料理もおいしい日本酒もある。沖縄ではこうしたものを味わいたい」と、小渕の後任となった森喜朗の訪仏時、随行していた九州・沖縄サミットの首脳個人代表(シェルパ)である野上義二外務審議官に注文するということもあったという。しかしその時点で料理を変更する時間的余裕はなかったため、盛りつけを和風にしたり、フォーク・ナイフ以外に箸を添えたりとわずかな変更にとどまる。

ふたを開けてみれば、晩餐会の料理は各国首脳に大好評をもって受け入れられた。シラクもすっかり満足し、サミット閉幕時、前出の野上外務審議官を見つけると、今回のサミットのなかでも晩餐会がとくに素晴らしかったと料理への賛辞を繰り返したという。そればかりか、野上には晩餐会の準備への貢献からレジオン・ドヌール勲章が授けられた。


豪華な晩餐会に高まる批判


ただし、沖縄サミットでの晩餐会については批判の声もあがっている。とくにイギリスのメディアの報道は辛辣で、「まるで宴会サミット」(タイムズ紙)、「蟹やキャビアを最高級ワインで楽しんだ首脳たちが、債務軽減問題を真剣に考えなければ、何百万という人々が国内外での圧制と外国の無理解に苦しみ続けるだろう」(サンデー・タイムズ紙)などと評した。なかには、過去のサミットを上回る約800億円という多額の開催費用について、「このお金があれば貧困国の1200万人の子供を学校にやれるのに」というNGO幹部の声を報じたメディアもあった。

同様の批判は、2008年の洞爺湖サミット開催時にさらに高まる。ここでも急先鋒はイギリスのメディアだった。洞爺湖サミットでは、折からの食糧価格高騰を受けて、サミット史上初めて食糧に特化した独立文書がまとめられることになった。だがこれに対し、「キャビアやウニを食べながら、指導者は考える」(インデペンデント紙)、「食糧不足と食糧価格高騰を丸一日議論したあと、首脳は空腹をもちこたえられなかったようだ」(ガーディアン紙)などと、議題と晩餐会の豪華料理とのギャップを痛烈に皮肉る報道があいつぐ。


西川恵は、それまで長いあいだ外交の饗宴は一般社会とは隔絶されたイベントであり、首脳たちが美食を楽しみながら関係を取り結ぶ、すぐれて政治技術的な世界であった、と書く。

《しかし食糧危機やアフリカ支援が取り上げられる国際会議にあって、饗宴もそうした環境から無縁でいることはできない。首脳たちがどのようにテーブルを囲み、何を食べ、どういう会話を交わしたかの一挙手一投足を世論は注視する。饗宴自体が一つのメッセージになる時代なのである》(前掲、『饗宴外交』)

震災復興のため開催地が変更されたサミット


洞爺湖サミットの教訓もあって、2009年7月のイタリアのラクイラ・サミットでは晩餐会がなくなり現在にいたっている。翌10年6月のカナダ・ムスコカでのサミットからは開催日数も、それまで定着していた3日間から2日間に短縮された。

このように、洞爺湖サミットからこの8年におけるサミットの変化は著しい。
何より参加国がG8(Group of Eight)からG7に減ったことは重大な変化だろう。これは、ロシアが2013年のクリミア併合をはじめとするウクライナの主権と領土の侵害を理由に、翌14年のベルギーのブリュッセル・サミット以来、G8への参加を停止されているためだ。

サミットについては、参加国がごくひと握りの国にかぎられること自体に対する批判も根強い。一方で、洞爺湖サミットと同年、2008年11月には米ワシントンで中国、インド、ブラジルなどの新興国を含むG20の首脳会合が初めて開催され、以後存在感を増しつつある。そこへ来てのG8からのロシアの離脱は、テロや紛争の解決を掲げるサミットの意義を揺るがすものであった。これでは他国への説得力や信頼感の低下はしかたあるまい。
今回の伊勢志摩サミットではロシアに対しどのような声明がなされるのだろうか。

ところで、伊勢志摩サミット開催前日、来年のイタリアでのサミットは、中東やアフリカからの難民・移民の“玄関口”に位置するシチリア島で開催すると、同国のレンツィ首相によって発表された。イタリアでの前回の開催は先述のラクイラ・サミットだが、これは開催直前になって当初の予定地から急遽変更されたものだ。

じつはラクイラでは2009年4月6日に大地震があり、300人超の住民が死亡するなど甚大な被害が出た。時のイタリア首相・ベルルスコーニは、その復興のため被災地でのサミット開催を決断したのである。ラクイラ・サミットの日程から晩餐会が消えたのも、まず何より被災地での開催ゆえだった。このほか、前年のリーマン・ショックによる世界的な金融危機への対処という理由もあったという。

開催地決定も含め、世界の変動に対しより機敏な対処を求められるサミット。首脳たちの食事もその例外ではなかった。
(近藤正高)