ついに第72代横綱・稀勢の里が誕生した。大相撲初場所で大関昇進31場所目の初優勝を飾り、19年ぶりの日本出身横綱へ。
19歳の若さで三役昇進のスピード出世もその後は足踏みが続き、ようやく30歳での悲願達成だ。
プロ野球界でも30歳近くになってからレギュラー定着し、その後40歳を過ぎても第一線で活躍する遅咲きの男が稀にいる。今回の主役、山崎武司もそんな選手の1人である。

相撲も強かった山崎武司


68年に愛知で生まれた山崎少年は、その恵まれた体格とスポーツ万能の「フィジカルモンスター」として地元でも有名だった。

中学時代に陸上部の助っ人を頼まれたボール投げでは90メートル以上を投げ、見事に県大会優勝。なんと全国大会でも準優勝に輝く強肩ぶり。
さらに格闘技でもその才能は図抜けており、柔道で市大会優勝。
中学相撲部の助っ人として、たった1週間の練習で愛知県大会3位に輝き全国大会出場。複数の相撲部屋からスカウトされるほどの逸材として名を馳せた。

のちに、巨人の巨漢助っ人投手ガルベスの頭部付近の投球にブチギレて大乱闘を巻き起こしたが、その根本には「球界最強」とも称される圧倒的な格闘センスがあったわけだ。もしも68年生まれの山崎がプロレスラーや総合格闘技の道に進んでいたら、1つ年下の桜庭和志の良きライバルとなっていたかもしれない。

中日入団後は長い低迷期間も…


そんな怪物少年が最終的に選んだのは野球の道だ。あの工藤公康やイチローの母校として知られる地元の名門・愛工大名電に進むと、甲子園出場こそなかったが高校通算56本塁打を放ち、86年ドラフト2位で中日入り。のちに山崎は事前にファンだった巨人から「阿波野秀幸の外れ1位で指名します」と挨拶があったものの、指名はなかったと当時の様子を振り返っている。


球団から将来の大砲候補として期待された山崎は、1年目からアメリカのドジャース傘下へ野球留学。3年目と4年目には2年連続でウエスタンリーグ本塁打王&打点王を獲得。しかし、89年10月の広島戦で捕手として出場するも正田耕三に1試合5盗塁を許し、捕手失格の烙印を押され、これ以降は外野と1塁を守るようになる。そして、長い低迷期間が始まるわけだ。

本塁打王に…10年目の大ブレイク


その豪快な見た目とは裏腹に酒は飲めず、カーマニアで高級車やミニカー収集が大好きな悩めるジャイアン。94年シーズンまでのプロ8年間で計11本塁打。これは昨オフに巨人から日本ハムへ移籍した大田泰示の8年間で9本塁打とほぼ同じ成績である。


そんな眠れる大砲が目覚めたのが9年目の95年、66試合で16本塁打を記録。ようやく1軍定着すると、翌96年にはついにその素質が爆発する。6月には打率.403、13本塁打、33打点の凄まじい数字で月間MVP獲得。前半戦終了時、山崎25本、同僚の大豊泰昭24本、松井秀喜22本のホームラン王争い。
最終的に39本を放った山崎が松井と大豊を1本差で抑え、僅差のキング争いを制した。まさに10年目の覚醒。
127試合、打率.322、39本、107打点、OPS1.007という当時WBCがあったら、侍ジャパンの4番を打てるような圧倒的な成績を残してみせたのである。

山崎武司と野村克也の出会い


その後も90年代後半から00年代前半まで、中日の生え抜きスラッガーとして活躍するも、やがて若返りを計るチーム方針の煽りを受け移籍志願。2003年、男34歳の再出発。
しかし新天地のオリックスでは、ともに強烈なキャラ同士の伊原春樹監督と衝突し自暴自棄状態に。監督室にバットを投げつける暴れん坊ぶりで、わずか2年で戦力外通告を受け現役引退……と思ったら、ドラゴンズ時代の先輩・田尾安志が指揮を執る新興球団の楽天から声が掛かる。
ここで数年後に野村克也監督と出会い、キャリア終盤に本塁打を量産することになるのだから、人生分からないものだ。
楽天時代の07年、43本を記録して2度目のホームラン王に輝いた山崎は、09年にも39本、107打点を記録。41歳を迎えるシーズンでの100打点は史上初である。12年には中日に復帰し、翌13年に45歳でユニフォームを脱いだ。

遅咲きのフィジカルモンスター山崎武司。まさに名作漫画『スラムダンク』安西監督の台詞「あきらめたらそこで試合終了ですよ…」を地で行く野球人生である。なお、山崎は通算403本塁打中、その半数近い196本塁打を35歳過ぎてから放っている。

(死亡遊戯)

(参考文献)
『今、意味がないと思うことに価値がある』(山崎武司/KKベストセラーズ)
テリー伊藤対談「山崎武司」(1)各監督との確執のホントのところ(Asagei plus)