1990年秋、ドラフト会議のテレビ中継を観て、当時小学生だった自分は興奮のあまりクラスメートの友達にそんな電話をかけたのをよく覚えている。
それだけ当時の元木大介という選手は、子どもも憧れるスーパースターだったのである。
イケメンで長打力が魅力の甲子園のアイドルから、浪人生活を選択したドラフト騒動を経て、プロ入り後はなんでもできる“クセ者”への華麗なる転身。さらに理不尽とも思える大型補強にも腐らず自分の仕事をまっとうした男。大人になって実感する、そんな元木の凄さ。
聞きたいことは山ほどある。今だから話せるドラフトのこと。大型補強をしぶとく生き抜いた巨人時代のこと。そして、不甲斐ない戦いが続く現在の古巣・巨人をどう思って見ているのか? 今回の『プロ野球世紀末ブルース』は特別版として元木氏を直撃した。
高校野球史に残るスラッガーだった元木大介
「甲子園はとにかく楽しかったね」
目の前に座る45歳になった元木大介はそう言って爽やかに笑った。上宮高校時代は甲子園で歴代2位タイの通算6本塁打を放っている高校野球史に残るスラッガー(ちなみに1位は清原和博の13本、2位タイで桑田真澄の6本)。まさにあの伝説のPL学園の“KKコンビ”と並ぶ甲子園が生んだアイドルだ。
「みんな色々なこと言うけど、俺は普通だからね。アイドルとかスーパースターとか言われても本人は何とも思ってないし、甲子園で優勝もしてないし。辞めてからみんなにこう言われて、小学校の時からそれなりに上手かったのかなあとか。
元木大介は71年12月大阪生まれ。まだ大阪のど真ん中に南海ホークスがあった時代、元木は南海の友の会に入り、ジュニアホークスという少年野球チームでプレーして、夜はテレビで巨人戦ナイター中継を見ていた野球少年。つまり年齢的にも地元の英雄KKコンビ直撃世代である。
「2つ上には春夏連覇した立浪和義さん(元中日)や橋本清さん(元巨人)の世代、その1学年下は宮本慎也さん(元ヤクルト)がいたからね。当時は大阪って言ったらPLだから。正直、自分も行きたいなと思ったこともあったし。だから、上宮に入ってからはPLを倒して甲子園に行くぞってね」
甲子園のアイドルの素顔は「強心臓のマイペース男」
そして、少年は夢の舞台へ辿り着くと、無類の強心臓ぶりと勝負強さを発揮し活躍。3年春の選抜ではキャプテンとして決勝戦まで進んでいる。なぜ10代の少年が数万人の観衆の前で、そこまで普段通りにプレーできたのだろうか?
「さすがに甲子園での最初の試合、球場に入った瞬間はうおおおって鳥肌みたいなのがあって、武者震いしましたよ。でも試合になると、対ピッチャーだからいつも通りの感覚。最近みたいにホームラン記録が何本とか、俺知らなかったし。
ところで当時、意識していた同世代のライバルはいたのだろうか? 大越基(仙台育英)や吉岡雄二(帝京)といった元木と同学年の有名選手の名前を挙げて反応を探る。
「ライバル……ですか?同世代から受ける刺激は……特には。基本、マイペースですから。小さい頃から負けず嫌いでも、周りを気にすることはなかった。高校でも誰が大会ナンバーワン打率がどうのこうのとか。そんなの知ったこっちゃない。とにかく甲子園で勝つ。それだけですよ」
まさにゴーイングマイウェイ。そして、思った。17歳にしてこのブレないメンタルの強さがあったからこそ、元木大介は89年秋の異常とも思えるドラフト騒動にも耐えられたのかもしれないなと。
元木大介を襲った「ドラフト騒動」
「プロを意識したのは、夏の甲子園が終わって退部届を出してからですね」
そこからあの巨人逆指名会見へと繋がっていく、と。
「違います、逆指名じゃないですよ、どこでやりたいですか? と聞かれたから、巨人軍でやりたいですと。
当時の雑誌を見ると、通学する電車の中までマスコミが追いかけて来たとか?
「俺が何か悪いことしましたか? と。ドラフト後のことですけど、電車の中で写真を撮って来たりね。朝のラッシュ時に周りに迷惑がかかってしまうから嫌でした」
89年ドラフト会議で元木は熱望していた巨人ではなく、野茂英雄(元近鉄)を抽選で逃したダイエーから外れ1位指名を受ける。ちなみに巨人1位は六大学の三冠王・大森剛(慶大)だ。
元木の意志は固かった。初志貫徹してダイエー拒否した後、多くの誘いが来る。六大学の名門から社会人の強豪まで、誰もがスーパースター元木大介を欲しがった。しかし、本人は意外な決断を下す。「ハワイでの浪人生活」である。
家庭崩壊寸前で決断したハワイでの浪人生活
「だって、ウチの家庭が崩壊しそうだったからね。毎日、記者に張り込まれているんだもん。おふくろが洗濯干すだけで、写真撮られる。異常だった。しかも応援してくれるよりも、生意気だと書かれていたから」
当時のマスコミの取材攻勢は報道規制もユルく対象者にとっては地獄の日々……。
「それで穴吹(義雄元南海監督)さんの息子さんが、こんな雰囲気の中で日本じゃ練習もできないから、ハワイはどうだと。まあハワイなんか行ったこともなかったけど、あれが例えばキューバとかフィリピンとかと言われても、俺は行っていたと思う。二つ返事だったもん。ハイ! 行きたいですって」
凄い、高校3年生の進路としては「ハワイで浪人生活」というのは異質だ。埼玉の大宮でのんびり浪人生活を送っていた俺とは大違いである。まさに人生を懸けた決断と言っても過言ではないだろう。
「まあ自分の好きなことをやりたいから。好きなことを好きなところでやれるチャンスがあったわけだから」
こうして、元木少年は海を渡った。
草野球で調整して巨人から悲願の1位指名
現地での娯楽はNHKの大相撲日本語放送のみ。人恋しくて日本人の新婚カップルを見かけると自分から話しかける日々。
「ハワイって言ったらワイキキのビーチをイメージするけど、島の裏で街灯もないところだったから(笑)」
えっ……そんな場所で野球をできる環境はあったのだろうか?
「たまたま少年野球を教えてた大工さんのおっさんがいて、その人と話し合って契約みたいな感じにしてもらって。マシンとボールがあるからとりあえず打てると。日本で言う河川敷みたいな、フェンスもないだだっ広いグラウンドだったから、打っても打っても球拾いが大変でね」
確か当時の日本の報道でユニフォーム姿の写真を見たことがあった記憶が……。
「あれは地元の草野球。どっかの大学のチームと戦ったりとか。なんとかリーグみたいのがあったんじゃない? 俺もさっぱり理解してなかったけど(笑)。そこでやらせてもらったけど、こんなところでやっててもダメだなあと思って、だからピッチャーをやりたいと。肩弱くなりたくないと思ったから。抑えるとかじゃなくて、チームには申し訳ないけど自分の調整のためにね」
絶句……。なんとドラフト1位選手がそんな環境で高校卒業後、半年間以上も過ごしていたとは……。
「でも楽しかったよ。英語も喋れない中でも野球は一緒だから。ゲッツー取ったり打者を抑えて喜ぶ。なんか野球の仲間ができたみたいで楽しかった。日本にいたらイライラしてただろうから、ハワイに行って正解だったと思うよ」
当時の騒動の様子は『ドラフト』というビデオ映画にまでなっている。
「知ってる知ってる(笑)。西川きよしさんの息子が俺の役で。あれ何もインタビュー受けてないけど、上手く作ってるなあって思ったよ」
そんなハワイ生活を経た90年、18歳の秋、自身2度目のドラフト会議を迎える。ここでついに2年越しの悲願、巨人からの単独1位指名を受けるわけだ。
「うん、ホッとした。やっとこの生活終わりだと思って。直前に記者から西武と大洋も(1位で)来るかもって聞いてたしね」
もしまた他球団から指名されていたら、もう1年浪人したのだろうか?
「気持ちはあったけど、本当にできたかどうかは分からないね」
1年でも大きい野球選手としてのブランク。そのキャリアにおいて、1度目のドラフトで高校から直接プロ入りしていたら、もっとやれたはずとは思わなかったのだろうか?
「それは分からない。今のプロ野球人生以下の成績かもしれないしね」と前置きした上で、元木はこう続けた。
「すぐにやってみたかったなというのは辞めてから思うね。あのハワイでの1年、野球を下手にした1年。でも人生の中では凄く価値のある大きな1年でしたよ」
(後編へ続く)
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