ニュース番組の生放送中に隣に座った女子アナを口説くプロ野球監督。

かつてそんな規格外の男がいた。
故・仰木彬である。現役時代は“野武士軍団”西鉄ライオンズの二塁手として活躍。引退後は20年近いコーチ経験を積み、近鉄とオリックスで指揮を執った90年代を代表する名将だ。

88年川崎球場での近鉄優勝を左右する伝説のダブルヘッダー「10.19」や、95年オリックス「がんばろうKOBE」の当事者。近鉄で1度(89年)、オリックスで2度(95、96年)の計3度のリーグ優勝(96年は日本一)に輝き、あの野茂英雄やイチローを世に出した男としても知られている。

仰木マジックと称された日替わりオーダーは「選手には安心感を与えない方がいい」という考えのため。
マスコミに対する情報規制をしたがる監督が多い中で、仰木は当時注目度の低かったパ・リーグの選手を売り出すために「話題になるならコーチとも喧嘩をしましょうか」とまで言ったという。
このコメントを知ったあとだと、あの96年オールスター戦の事件も納得がいく。

オールスターでの「投手・イチロー」


今も語り継がれる「投手イチロー登板」である。
96年7月21日のオールスター第2戦、パ・リーグ4点リードで迎えた9回表二死、次打者は松井秀喜のあと1人で勝利という場面で全パを指揮する仰木監督がいきなり「ピッチャー、イチロー」をコール。
爆発的に盛り上がるスタンドを背にライトから駆け寄り、マウンドで西武の東尾監督からボールを受け取る背番号51。思わず苦笑いするゴジラ松井。すると不機嫌そうにベンチを出て全セ野村克也監督は松井にこう聞く。


「お前、イヤだろう?」
そして松井がベンチに下がり、代わりにコールされたのが投手の「代打高津」というわけだ。結局、MAX141キロをマークしたイチローは高津を遊ゴロに打ち取りゲームセット。

前年の日本シリーズからマスコミを通してやり合っていた二人の名将、「球宴を冒涜するな」という堅ぇノムさんと、「投手イチローが最大のファンサービス」と考えた仰木監督。当時ファンの間でも、さすがにやりすぎ派と、お祭りなんだからイチローvs松井を見せてくれよ派で意見が真っ二つ。

印象的だったのが、コーチとしてベンチにいた巨人の長嶋監督が苦虫を噛み潰したような顔をしていたことだ。もしも、この年の全セ監督がミスターなら、恐らく松井はそのまま打席に入っていたのではないか。

2015年シーズン最終戦でイチローがメジャーのマウンドに上がったり、アストロズの青木宣親が大量リードされた9回に6番手として登板したりするMLB中継に親しんだ現在なら、抵抗なく受け入られそうなこのアイディア。早すぎた仰木マジックのひとつと言えるだろう。

意外にも、のちに仰木監督が「素直に乗れないところがあの人らしい。だが、その言い分も分かる」と相手の心情を思いやった発言を残せば、ノムさんも仰木監督が亡くなった際は「もう一度監督として戦いたかった…」と惜別のコメント。
もしかしたら、我々は夢の球宴を舞台にしたガチの感情をショーに落とし込む最高のプロレスを見せてもらったのかもしれない。

阪神監督就任が流れた意外な理由


実はこの数年後もふたりの因縁は続いており、仰木さんはノムさんの次の阪神監督候補として名前が挙がったこともある。


当時の阪神は98年から4年連続最下位中の暗黒期のチーム状態。99年から名将・野村克也を招聘するも、全く浮上するきっかけすら見えず、ポップスター新庄はニューヨークへ去り、補強も思うようには進まない。
元阪神球団社長・野崎勝義氏の著書『ダメ虎を変えた!』では、「選手も甘いが担当記者もOBも悪い。主力選手たちはコーチの言うことをまったく聞かないし、岡田彰布2軍監督は辞めさせた方がいい」とひたすらボヤくノムさんの姿が書かれている。

ついでにサウスポーエース井川慶は趣味のラジコンヘリに熱中する危機感のなさ。さらにダメ虎に追い打ちをかけるように、01年には野村夫人のサッチー脱税問題スキャンダルが襲う。
すでに開幕前から一部週刊誌で脱税疑惑が報じられており、同時に野村監督の進退問題もマスコミを賑わす。
阪神サイドは8月初旬に一度は続投を発表するも、直後に久万オーナーの「サッチー脱税摘発なら野村続投は白紙撤回」発言が週刊ポストや週刊文春に報じられる混乱ぶり。

もちろん球団側は万が一の事態を想定して、騒動の裏で意外な大物に接触していた。もうひとりの名将、仰木彬である。もちろん関西での人気と知名度は抜群。01年限りでオリックス監督を退き、タイミングとしても申し分なし。
66歳、最後の大仕事としてパ・リーグ育ちの仰木彬がついに甲子園にやってくる……のか? 調査をすると、監督としての戦略、采配、情熱はほぼ完璧。

問題はただひとつ。やはりというべきか、仰木の奔放なプライベートである。当時の仰木は九州に奥さんを残し、神戸のホテルで単身赴任生活。夜の街で見かける度に一緒にいる女性が違う遊び人。キャンプ地の沖縄宮古島では5、6人のおネエちゃんを引き連れて飲み歩く生涯現役ぶり。関係者は皆、苦笑いしながらこう言ったという。

「近鉄やオリックスでは問題にならなかったけれど、阪神監督となると、写真週刊誌や雑誌、スポーツ紙の格好のネタになり、野球どころではなくなるかもしれませんなあ」

結局、条件提示までしながら、電鉄役員が女性スキャンダルを嫌がり実現ならず。

この後、05年に合併球団のオリックス・バファローズで70歳にして4年ぶりの監督復帰を果たすも、体調悪化により1年限りで退任。シニア・アドバイザーの就任が発表されたが、12月15日、監督退任後78日で帰らぬ人となった。酒を愛し、女を愛し、そして野球を愛した男。仰木彬は最後まで仰木彬だった。



(参考文献)
『仰木彬「夢実現」の方程式―野茂、イチローらを育てた男の実像』(永谷脩/イースト・プレス)
『ダメ虎を変えた! ぬるま湯組織に挑んだ、反骨の11年』(野崎勝義/朝日新聞出版)
『週刊プロ野球セ・パ誕生60年 1996年』(ベースボール・マガジン社)

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