どこからどうみても萌えアニメなのに、人間社会の難しすぎる問題にザクザク切り込んでいく、ゆるふわ風刺SFアニメ『セントールの悩み』。外側ふんわり中身はハード。

9話・10話の話題は「人種差別と迫害」「現代美術と資本主義」
今回のシリーズ屈指の、現実問題を皮肉った回だ。
平等にどこの国の誰とでも握手できますか『セントールの悩み』9・10話人種差別と迫害、現代美術と資本
公式サイトより。かなり尖った風刺が多い9・10話は必見

「法の平等」に守られない種族


この作品のテーマのひとつが平等
作中では、翼人・角人・人馬などの多様な種族の平等が、絶対的な力を持つ法によって守られている。
平和そうに見えて、平等をやぶった人間への処罰が異常に厳しいディストピアが見え隠れする。

9話は、平等の法律の枠の中に入っていない人種が登場する回。
見た目はカエルのルソー。
同等の人間であると認めるのなら、「カエル人」と呼ぶのは差別なので、国籍を取って「フランス人」と呼ぶのが適切。
ルソーは人類社会での教育を受けて成長し、優秀な成績で貿易会社の社長に就任。人間(翼人や角人などのマジョリティ)社会で大活躍している珍しい存在だ。
平等にどこの国の誰とでも握手できますか『セントールの悩み』9・10話人種差別と迫害、現代美術と資本
公式サイトより。ほのぼの感皆無の、人種差別による強制収容所の迫害を描いた回

ルソー(法の外の人種)が翼人(法の中の人間)の男性と会議する際、手袋をはめたまま握手をしようとするシーンがある。
翼人はルソーに、手袋を脱いで直接握手するよう求める。
ルソーが帰った後、部下がウェットティッシュを差し出す。

「私の手は汚れてなどいないぞ」「君はもっと学ばねばならんな」

相手に平等に接するにはどうすればいいのか。
法的な基準はあるものの、個々のキャラクターが、常に自身の判断を求められている。
そこでの反応が、本当の意味での「差別意識」を浮き上がらせていく。

差別がなくなる世界なんてあるんだろうか



囚人「ほらSFによくあるだろ、形態の差がなかったら世界はもっと平和になってるっていうの。あれは嘘だね。国家、民族、髪の色、肌の色、背の高低、体躯の痩肥。なんでも違いがある限り、いがみあうのさ。
外見が全員同じになっても、次は服の丈やらで、きっといさかうよ。これはどうやっても直らない。人間の性だね」


Bパートで描かれるのは、ナチス・ドイツを彷彿とさせる、戦時中の強制収容所の迫害の様子。
劣等民族と言われ人間扱いされず、死ぬまで強制労働され続ける。逆らったら簡単に殺される。

囚人の言う「SF」とは、向こうからみた現実社会(読者・視聴者側)のことだろう。

『セントール』世界は、身体の構造が異なった種族間で、凄惨な迫害の歴史があった。
それに比べたら、「SF」であるところの現実の人間社会は、さほど身体に大きな形態の差はない。
だが、肌の色や言語や民族で差別は起き続けているのは、事実。
『ガリヴァー旅行記』が、人間と馬の立場が逆転した国フウイヌムを描くことで、現代社会を皮肉った手法と、ちょっと似ている。

美術ってなんだろう?


10話は南極人のスーちゃんが、現代美術館にデートに行く話。
相手と二人で、現代美術論を語っている。


この世界では、かつてはきれいなものを職人がつくるのが「美」だった。
ところが機械や写真で大量生産できるようになると、今までの「美」と異なる特別な「美」が必要になる。
そこで主観的な表現をしたり、美の基準そのものをいじり続けた抽象的な絵が登場するようになった。
今は美ではない工業製品を美術として展示するのが、現代美術と呼ばれることもある。
平等にどこの国の誰とでも握手できますか『セントールの悩み』9・10話人種差別と迫害、現代美術と資本
公式サイトより。うってかわって現代美術を考える回

高校生「今はもう美術という概念の文脈をいかに読み替えるかというゲームになってる、ってうのが僕のが聞きかじりをまとめたもの」

工業製品を展示、というのはおそらく、マルセル・デュシャンの『泉』のネタだろう。
【作品解説】マルセル・デュシャン「泉」(山田視覚芸術研究室)
作ったものではなく、拾ってきた便器にサインをしただけ。
当時の評論家たちは混乱。これは芸術なのか?
かくして、アートの持つ「美」の考え方や「作る」ことへの意味をひっくり返す作品となった。

作中では、絵を描き続けているけど売れない父親を持つ、優等生少女・御魂真奈美が、同じ現代美術館で絵を見ながら、考える。
父が描くのは、かわいらしい子どもの写実画ばかり。
はたしてそれで芸術家になれるんだろうか?

「素人考えで言わせてもらうなら、売れるためにゃ、シュールっつうの、ああいうの描くとか、いっそのこと絵を止めてパフォーマンス」「要はサ、後ろに理屈がついてりゃいんだろ」
友人の御牧真が考えるのは、商売としての「芸術家」だ。とにかく売れたいなら話題性をとれ、というのが彼女の考え方。
「志望者が大勢いる中で認められたいっつうのは勝ちたいってことだろ」

一方真奈美は父を擁護する。「父は「絵描き」になりたいのよね。あくまで「絵」を描きたいの。それも前衛とか抽象じゃなくて、古典的で写実的なのをね」
なら趣味でやればいいのでは?
「趣味でっていうことはあなたのやってる事は一生お遊びレベルだっていうことでしょ、絶望宣言よ!」

趣味でやることイコール「芸術家ではない」、とはならないはずなんだけどなあ。
社会的肩書に「芸術家」はつかないかもしれないが、付け刃でやりたくもない「読み替えゲーム」に飛び込むことが、芸術活動になるとは思えない。
描きたいものを描いて、自分の美を追求してこそ、芸術家の原点……という方向には、彼女たちの考えは向かっていない。

今回だと「美術という文脈」云々に関して、「芸術家」という主語を1つにまとめて語ってしまっているのがミスリードさせられる部分だ。
無数の人間が関わっているからには、どの時代にも写実的な子どもの絵だけを描いて生活している人は、一定数いたはず。歴史的に名を残していないだけで。

『セントール』では芸術、文学、芸能など、現実社会の文化に対しても切り込んでいる。
特に原作のアイドル回は必見。多様な形態の人種がいる世界で、アイドルという偶像の仕事の扱いは繊細。マイノリティな種族をどう扱うかの表現が面白い。

『セントール』自体が「特定文化の概念の文脈を読み替える」試みの、現代美術的なエンタテイメント。
見終わった後、答えがでなくて悶々と考えさせられてからが、本番だ。
(たまごまご)