熊本地震から1年5カ月。被災地では復興が進んできましたが、現地の人々の暮らしにはどのような変化があったのでしょうか。
県内でも特に大きな被害を受けた南阿蘇村に暮らす田中さん(仮名・29歳女性)にお話を伺いました。
熊本地震から1年5カ月経った南阿蘇村の現在 被災者が抱える復興の責任感
2016年4月17日。南阿蘇村と熊本市内を結ぶ道路の様子(写真提供はすべて田中さん)


「被災直後の仕事はしんどかった」


――まず、本日はインタビューに応じていただきありがとうございます。こういった取材を受けること自体は負担になりませんか?

「こういった場で話すことについては、人によっては辛いと感じるかもしれないけど、私は平気です。私の場合はそれより、余震だとか、ひとりでいる時にふと当時のことを思い出したりすることのほうが辛いですね」

――熊本地震では大きな揺れが2回起こりました。2016年4月14日21時26分に発生した前震では、マグニチュード6.5を記録し、当時はこれが本震だと思われていました。しかし、前震から約28時間後の4月16日1時25分に、マグニチュード7.3の本震が発生。震度6強の揺れを観測した南阿蘇村では、橋の崩落や土砂崩れによって道路が寸断、約1000人が孤立するなど、大きな被害を受けました。


「14日の前震が起こった時には自宅で過ごしていました。この時点では特に大きな被害が出たわけではなかったので、翌日は普段通りに仕事に行きました。15日の夜には、いくつかあった余震のせいもあって家族はみんな寝不足の状態。もうこれ以上大きな揺れは来ないだろうと思って眠りについたところに本震が来ました。母が寝ていた場所のすぐ近くに父の仏壇が倒れてきて『父は母のことを殺したいのか守りたいのかどっちなんだろう』と思う一幕もあったり……。その後は車内で夜を明かしてから、避難所になっていた近所の社協に避難しました。
でも、お年寄りは地べたに寝ているし、トイレの匂いも酷かったので、避難所では眠らずにそそくさと帰宅しました」

――当時の報道では、南阿蘇村と熊本市を結ぶ阿蘇大橋が崩落し、「陸の孤島」のような状態で取り残されていた様子が印象に残っています。

「17日には従兄弟の結婚式に出席する予定がありましたが、本震の後、孤立状態になってしまったので行くことはできませんでした。さらに本震から2日後ぐらい経ってから携帯電話会社の電波塔がやられてしまったので、少しの間、音信不通になり、親戚にはだいぶ心配をかけてしまいましたね。家については、築10年以内でまだ新しかったし、南阿蘇村の中でも比較的被害の少ない地域だったので、壁紙のクロスにヒビが入った程度で済みましたが、断層の場所や、主要道路である阿蘇大橋と俵山トンネルの近くは、やはり大きな被害を受けました」

――いちばん大変だったことは何でしょうか。

「被災直後の仕事はしんどかったです。私が勤めていた介護施設では、道路が寸断された影響で村の外から来ていた職員は通勤することもできなかったので、出勤できる人間が普段の半数ぐらいしかいない状況でした。
家族には休むように言われていたのですが、入所者もいるので投げ出すわけにもいかない。それでも入所者の方々自身の疲労であったり、余震に対する不安なども祟って、一度に何人もの方が病院に搬送されるというでき事も起きてしまいました」
熊本地震から1年5カ月経った南阿蘇村の現在 被災者が抱える復興の責任感
本震後の雨による土砂崩れも


特に助かった支援物資は水と卓上ランプ


――被災後、全国からの支援は十分に届きましたか?

「従兄弟の子どもが高校のグラウンドに椅子を並べて『SOS』の文字を作り、その画像をSNSに投稿したんです。その画像がすごく拡散して、支援物資をたくさん頂いたのに余らせてしまって逆に申し訳なさそうにしていた、ということがありました。……一方で、村の中でも特にさびれた場所に住んでいるお婆ちゃんなんかは、生活用水が足りないので洗濯するにも雨水を使わざるを得ない状況でした。本当にたくさんの支援をいただきましたが、SOSを発信できない人、本当に必要としている人のところにまでそれを届けたり、手を差し伸べたりという点では、十分にできていなかったのかなと悔やむ部分もあります」

――支援物資で特に助かったものは何だったのでしょうか。

「いちばん貰って助かったのは水です。これは誰に聞いても同じ答えが返ってくるはずです。
飲料水についてはペットボトルや給水車で賄えたんですけど、トイレを流したり身体を洗うための生活用水がとにかく不足していました。うちの場合は、お隣さんがたまたま、阪神淡路大震災を経験された方で、14日の前震が起きた後に『またすぐに大きいのが来るかもしれないから、浴槽に水を張っておきなさい』と教えてくださったので、それで助かりました。水以外だと特に助かったものは卓上ランプですね。電気が完全に戻るまでは2週間ぐらい掛かったので、夜に本を読みたい時などには、家族でランプを取り合いもしました」
熊本地震から1年5カ月経った南阿蘇村の現在 被災者が抱える復興の責任感
卓上ランプは特に助かった支援物資のひとつ

「がんばろう熊本」は弱い人を追いつめる


――その後『がんばろう熊本』をスローガンに復興が進んでいきました。

「『がんばろう熊本』は……個人的には少しうんざりしています。大雑把な言い方になるんですが、そういった言葉は恐らく『強い人』には効果てきめんな一方、これ以上頑張ることのできない『弱い人』のことは余計に追いつめます。震災から時間が経つにつれて、メディアなどでは『強い人』が頑張っている姿の方を取り上げる機会が多くなっていきましたが、家や財産を失った人がたくさんいましたし、被災後に会社が回らなくなった社長さんなど、立ち直ることができなかった人が自ら命を断つようなこともしばしば起きていました」

――「がんばろう」と奮い立てる人ばかりではないということですね。


「個人的には『早く復興しなければいけない』という気持ちがみんな強すぎるように感じました。自分たちのせいで地震が起きたというわけではないのに、責任を抱え込み過ぎていた。マストではないことがマストになるというのはしんどいものですし、規模もあまりに大きすぎました。いっそ誰かに責任を押し付けたり、誰かを咎めることができたら、それがいちばん楽なのになと思ってしまうぐらい」


復興は進んでいるが人手不足は深刻


――生活は少し落ち着きましたか?

「私個人の生活としては、職場が変わったこともあり、ずいぶん落ち着きました。電気やガスなどのライフラインが普通にあり、当たり前のようにインターネットが使えて、好きな音楽が聞けて、休みがあれば旅行にも行けます」

――南阿蘇村の復興度合いはどのくらい進んでいますか。

「復興は、ひいき目で見てだいぶ早いと思います。
元々田舎の観光地で、工事関係者が宿泊できる施設も多くありましたから、寸断された道の開通も早期に済みましたし、仮設住宅もすぐに建ちました。南阿蘇村のお年寄りからは『逆に場所が良かった。こんな田舎での地震で良かった。東京のような大都市であったらもっと大変だった』という声さえよく聞くぐらいです。一方でまだ元通りになっていない部分として、人手不足があります。震災から時間が経ち、観光客は戻りつつあっても、住民は減ってしまったのでどの職場も人が足りていません。唯一の大学だった東海大学も被災してしまったので、学生のアルバイトもいなくなってしまいました」

――今後、南阿蘇村がどうなっていくことを望みますか?

「すごくありきたりですが、震災が起こる前の暮らしに戻れれば良いなと思います。道や建物は時間を掛ければ元通りになるけど、人手不足については、正直まだまだ戻るイメージがあまり沸きません」
(辺川銀)