“プロレス界の帝王”高山善廣が、試合中のアクシデントで頚椎を損傷した。本人のブログで「首から下が動かない」という現状が明かされているが、そんな中でも彼は厳しいリハビリを受けながら怪我と懸命に戦っているという。

高山善廣の軌跡「プロレス界の帝王」と、これからも共に戦っていく
『身のほど知らず。』高山善廣/東邦出版

かつて、高山は「ノー・フィアー」というコンビを組んでいた。その意味については、言うまでもないだろう。恐れを知らない。
今までに目にした試合やインタビュー、はたまた漏れ伝わる噂や伝聞等に触れることで、我々ファンは彼の芯の強さを知っている。高山善廣は、プライベートでもノー・フィアー。
深刻な事態であることは間違いないが、そんな時でも彼のハートは凛としているはず。
軽はずみなことを言える状況ではないが、それでもファンは高山に幻想を抱いている。

アントニオ猪木からの天啓を受け、虚弱児がプロレス界入りを果たすまでに


中学3年の時点で身長が185センチに達するなど、少年時代から体格に恵まれていた高山。しかし、彼は物心ついた頃から喘息で苦しんでいたという。夜中に突然、発作が起こり、知らない間に眠りにつく。翌朝も大変だ。昨晩は全身の筋肉を使って喘いでいたため、起きたら体じゅうが痛くて仕方がない。そのせいで、幼稚園や小学校へ行けない日も多かったという。


そんな高山に転機が訪れたのは、中学時代。プロレス好きの友人が「面白いから読んでみなよ」と、アントニオ猪木の自伝『苦しみの中から立ち上がれ』を貸してくれたのだ。
「その本のなかには、猪木さんが力道山のもとに入門したばかりのころ、全然スクワットができず、鬼のような師匠に怒られ、殴られながらも頑張って、少しずつできるようになったことが書いてあった」(高山善廣・著『身のほど知らず。』から)

このエピソードが、高山にとっての天啓となる。腕立て伏せを1回もできない虚弱児の自分。しかし、入門当初の猪木さんも元はスクワットができなかった。
そこから努力して努力して、何千回もできるようになった。自分も頑張って努力すれば、腕立て伏せができるようになるんじゃないのか。
「プロレスラーを目指そう!」というより「自分だって頑張れば強い人間になれるかもしれない」「やってみれば思いはかなうのかもしれない」と衝撃を受け、彼は視界が開けたという。

それからは自主トレーニングを積むようになり、大学2年の時に入部したアメフト部ではどの部員よりも基礎体力があることを実感する。女の子よりもひ弱だった自分が、今では誰よりも重いバーベルを上げている。
「猪木さんの本を読み、『頑張ればできる』『思えばかなう』という言葉にしびれた俺は、まさにその言葉を現実のものとした」(『身のほど知らず。
』から)

そして大学2年の頃、新日と業務提携時代のUWF入門テストに合格した高山は同団体の新弟子になった。……が、高校時代に取り組んでいたラグビーで負傷した右肩が新弟子生活で痛み始め、そのせいでベンチプレス中にバーベルを自分のノドに落としてしまう。これを機に不安と恐怖心に苛まれた高山は、遂に逃げ出してしまった。入門して、わずかひと月ちょっとしか経っていない時期の話だ。

だが、これでは終わらない。しばらくは実家でふさぎ込んだ生活を送っていたものの、やがて精神は回復。
そして、元々興味の内にあったライフセーバーのアルバイトに励むことになる。
地元の江ノ島海岸でパトロールをしていたところ、「高山!」と自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。振り返ると、そこにいたのはかつての先輩・宮戸優光であった。気まずい存在に見つかってしまった高山は「黙って逃げてすいませんでした!」と謝り倒したが、「お前、逃げちゃってもったいなかったなあ」と宮戸の方は気にしてない様子。その後も宮戸との親交は続き、宮戸は高山へ新生UWFのチケットを送り続けたという。
「一緒に行った人には『高山はいつも寂しそうに観てる』ってホントに言われた」
「逃げた人間が言うのもなんだけど、『俺、がんばったらあそこにいたのかもしれない』って思っちゃったから」(高山の発言、「KAMINOGE」vol.32から)

そしてある日、宮戸を通じて知り合っていた長井満也と街中で遭遇する高山。
長井は負傷した首の治療で警察病院へ行った帰りであった。心配で「ケガは大丈夫なんですか?」と質問した高山だったが、長井から返ってきたのは「プロレスラーになるのが夢だから頑張りますよ」と言葉だったという。
肩のケガでケツを割った自分とは違い、首のケガにも負けずデビューを目指していた長井。時を同じくして、宮戸から「お前、本当にプロレスラーになりたくないのか?」という電話が入る。高山は改めてUWFインターナショナルの入門テストを受け、見事に合格。勤めていた会社を辞め、25歳にしてプロレス界に再チャレンジすることとなった。

高山善廣は“弁の立つ知性派”


Uインターのトップは高田延彦。UWFでもトップグループにいた高田は、夜逃げした高山の存在を覚えていた。
「最初は高田さんが口をきいてくれなかった。ずーっと練習して、雑用やって、何ヵ月かしてようやく口をきいてくれて。そのとき『俺がなんでおまえと口きかなかったかわかるか? おまえが本気でやるつもりがあるのか試したんだ。いま俺は、おまえががんばってるのを認めたから、おまえを俺の付き人にする』って言ってくれたんです」(「KAMINOGE」vol.32から)

本当の意味で、プロレスラーの道を歩み始めた高山善廣。当時、Uインターの興行に毎回足を運んでいたという浅草キッドの玉袋筋太郎は、当時の会場の様子を述懐している。
「サラリーマン時代の仲間とかなのかな、応援してくれる人が凄いいたよね。『高山、がんばれ!』って。そういう声援がもらえる選手だったんだよ。そりゃ同僚だってさ、一度は挫折した男がもう1回夢に向かってがんばって、それで第1試合に出てたら応援したくなるよね」(「KAMINOGE」vol.72から)

しかし、次第にUインターの経営は悪化。団体を立て直すため、上層部は新日本プロレスとの対抗戦を決定した。自分をプロレス界に呼び戻した宮戸はこの方向性に異を唱えて退団。しかし、その副産物として所属選手がインタビューで話す発言の言論統制が取っ払われることとなる。ファンからすると、より選手の素が露わとなったのだ。
新日との10.9東京ドーム決戦にて、高山は飯塚高史とのシングルマッチが組まれている。飯塚といえば当時の新日道場で若手のコーチ役を務め、またロシアへのサンボ留学も経験している実力派だ。
でも、高山は恐れを知らない。対戦決定時、彼が放った台詞がイカしてた。飯塚のサンボ留学歴について記者から問われた高山は「そんなの、今なら格通の読者だってやってるじゃないですか(笑)」と一笑に付したのだ。

“弁の立つ知性派”というイメージが高山には定着しているが、彼がコメントを発する際に参考にするプロレスラーがいるそうだ。
「『世界のプロレス』は観てましたけどね。ロードウォリアーズ! 俺はあれを観てたから、のちにノー・フィアーのあのインタビューができたんだよ」(「KAMINOGE」vol.32から)

実は多くの先輩が逡巡していた新日本プロレスとの対抗戦だったが、高山に限ってはノリノリだった。
「当時、俺は自分がやってるUインターのプロレスにけっこう自信を持ってたんだけど、プロレスよく知らない友だちに『おまえ、何チャンネルに映ってるの? 4チャン? 10チャン?』って言われて、『いや、テレビには映ってない』って言うと、『なんだ、そんなとこか』って言われて、それが凄く悔しかったんだよね。だから新日本に上がれば10チャンに出れるから、世間に名前を出せるチャンスだって」(「KAMINOGE」vol.32から)
結果、飯塚戦で勝利を収めた高山善廣の名前は、新日本プロレスファンにも刻み込まれることとなった。

師匠・高田延彦からのエール「お前は全日本でトップになれ」


しかし、奮闘むなしくUインターは崩壊の時を迎えてしまう。同団体最終興行のメインエベントは、高山と師匠・高田の一騎打ちである。この試合は高田が勝利を収めているが、その数日後に高山は安生洋二らと共に高田から呼ばれ、食事会を開いている。席中、高山がトイレに立つと、その後から高田もトイレにやってきた。
「高田さんはまるで俺と二人っきりになるのを待ち望んでいたかのように言った。『お前はもう全日本で頑張ってトップを狙え。そして、いつか大きいところで、また俺と一騎打ちをできるように頑張ろう』」(『身のほど知らず。』から)
この時の高山は川田利明に照準を合わせ、全日本プロレス参戦を視野に入れていた。しかも、長身の選手を好むジャイアント馬場は高山の参戦を待ち望んでいた。師匠・高田は岐路に立つ弟子にエールを送ったのだ。

また、Uインターの後続団体である「キングダム」が解体した後、高山は全日への参戦を本格化させている。
実は同時期に新日本プロレスからも声を掛けられていたようだが(蝶野正洋率いるユニットのメンバーになるプランがあった)、彼は主戦場に全日本プロレスを選んだ。その理由として「俺が全日本に行ったら違和感だらけで目立つぞ」と高山は考えたらしい。人生の選択で見誤らないセンスと知性には脱帽だ。

しかし、全日参戦の時期も長くは続かなかった。馬場亡き後に全日のトップに就いた三沢光晴が社長を退任したのだ。三沢は新たに「プロレスリング・ノア」なる新団体を旗揚げし、高山も戦いの場をノアへと移した。
「ある日、三沢さんの社長バスに俺と垣原(賢人)さんだけ呼ばれて、巡業中に三沢さんのバスだけ、みんなと違うホテルに泊まったんです。そのとき三沢さんに『じつは全日本を出て、違うところでやろうと思うんだけど、高山選手と垣原選手にも来てほしい。どうなんだ? どっちでもいいんだよ』って言ってくれて。『ボクは行きます』と。そういうことがあったんですよ」(「KAMINOGE」vol.32から)
後年、三沢はノア旗揚げの経緯について「そんなにたくさんの選手を連れて行くつもりじゃなかった」と明かしているが、ということは高山に関しては最初から必要なメンバーだったということになる。

PRIDEを救った「高山善廣vsドン・フライ」は、今も語り継がれる


高山がノア所属だった時期も、実はかなり短い。ノア旗揚げの翌年、高山はフリーになったのだ。この時、高山はPRIDEへの参戦を決意していた。
「ノア所属のままで出てもいいって言われてたんだけど、所属のままだと日テレとの契約があるから、PRIDE出てもフジテレビに映らなかったんですよ。俺としては、フジの電波に乗らなかったら出る意味がないんで。深夜にしか出ないタレントが、ゴールデンのタレントになるチャンスだったから(笑)。それで三沢さんに相談したら、『ノア退団してフリーになっても、ちゃんといままで通りレギュラーで呼ぶから大丈夫だよ』って言ってくれて。それで、『じゃあ俺と一緒に、PRIDEのところに話に行こう』って、一緒に森下(直人)社長のところに行ってくれたんですよ」(「KAMINOGE」vol.32から)

PRIDEで通算3戦を経験している高山だが、その中でも特に語り草なのがドン・フライ戦だ。
「試合は、ひと言で言えば、ノーガードのぶん殴り合い。お互い相手の首を左腕で押さえて、右腕でぶん殴る。あのシーンが拍手喝采を浴びたわけだが、確かにあとでビデオを見て、自分でも笑ってしまった。なんじゃこりゃ、すげえことやってるじゃん、といった感じで大笑いした」(『身のほど知らず。』から)
MMAが競技として確立したアメリカにおいて「MMAベスト100」的な番組があれば、この試合の映像は今でも必ず使われるという。

ちなみに、「ドン・フライvs高山善廣」がメインカードとして組まれたのは「PRIDE21」。ちょうどこの頃、同時期にはサッカーのワールドカップも開催されていた。その上、メインに至るまでこの日のアンダーカードは低調の連続。興行として大失敗に終わるところであった。そんなシチュエーションで、あのような振り切った試合が行われたのだ、

玉袋 最後があんなすげえ試合になってさ。スタッフルームはプロデューサーから何からみんなで握手ですよ。「やったー!」って。
高山 あの日は帰りにクルマに乗ってたら高田さんから電話がかかってきて、「高山、ありがとうな。おまえのおかげでPRIDEが救われた」って言ってもらえた。
(「KAMINOGE」vol.32から)
高山にとっても、試合後に高田から電話がかかってくることなど初めてだったという。

バックルームでも圧巻。顔が腫れ尽くした状態のまま、あっけらかんと記者会見に出る図太さ。プロレスラーとして、他の格闘家たちに「おまえらにこれができるか?」と見せつけた瞬間であった。

総合のリングで大ブレイクを果たし、その“格”のままプロレス界へ凱旋した選手は他にも数名いる。だが、その中でも高山は抜きん出ている。
「高山さんが凄いのは、そのPRIDEでの活躍を、しっかりとプロレスにフィードバックしたことですよね」(格闘技ライター・堀江ガンツの発言。「KAMINOGE」vol.72から)
たしかに当初の勢いも虚しく、次第にプロレス界で尻すぼみになる選手は多数であった。その中で高山は、見事に“プロレス界の帝王”へと登り詰めたのだ。

「考えてみれば、これまでUインターでデビューし、新日本プロレス、WAR、東京プロレス、全日本、ノア、ZERO-ONEと、そしてPRIDEにも出ているのだから、ここまであらゆる場所を渡り歩いているヤツはほかにいないだろう。俺はどの場所でも、それなりのインパクトを残してきた。しかし、子どもの頃に病弱だった俺が、まさかここまで来れるとは、自分でも多少の驚きである」(『身のほど知らず。』から)

「高山善廣に勇気をたくさんもらったと思うので、皆さん力を貸してください」(鈴木みのる)


現在の高山の現状が公表されてから、業界内外から様々な支援の声が上がっている。まずは高山を応援するため、有志一同によって「TAKAYAMANIA」が設立された。今後、各プロレス団体の試合会場にて募金箱を設置、加えて応援グッズの販売やチャリティー興行などによって高山を支援していく。

「TAKAYAMANIA」実行委員会記者会見にて、高山善廣の“親友”である鈴木みのるは、キャラをかなぐり捨てて涙声でファンに呼び掛けた。
「あれはもう、10何年か前ですね。俺がもう体も良くないし、プロレスをもうできないなと思ってた時に、彼とドン・フライの試合を観まして『俺、何やってんだろ?』って思って。その後、新日本プロレスに上がりまして、戦って意気投合して、新日本プロレス、プロレスリング・ノア、全日本プロレスと各メジャー団体を一緒に暴れ回って。そうやって、すごく濃い時間を共有してきまして。一昨年はそれぞれ敵になり、命をかけて戦った、自分の親友です。……あの、今さら、こんな、普段『バカヤロー』つって人のことぶっ飛ばしてるこんなクソ野郎が何を言っても皆さんには響かないと思いますが、俺なんかどうでもいいんで、ぜひ高山善廣に……勇気をたくさんもらったと思うので、ぜひ皆さん力を貸してください」

高山が今後必要となってくるのは、どんなことだろうか。切実なことを言うと、経済的な問題は避けて通れない。
「要は高山とその家族の力になればいいわけだから。カネのことを言うと、下世話に聞こえるかもしれないけど、実際、カネに困ってるわけだから。医療費も生活費も含めてね。俺はアイツの家族のことも知ってるし、それをなんとかしたいっていうことだから」(「KAMINOGE」vol.71から)

高山の弟弟子である山本喧一は、以下のようにコメントしている。
「高山さんの場合、あとは高額の治療しかできないみたいな話も聞きますから。可能性がある治療法をなんでもトライさせてあげたいなっていうのがボクの気持ちだし、だけどボクひとりじゃできないし」(「KAMINOGE」vol.71から)

公私ともに高山と親交があるNOSAWA論外も高山について口を開いた。
「大仁田厚もすぐ募金してくれましたからね。『少ねえけど、これ渡しておいてくれ』って。あとは佐々木健介、北斗晶夫妻も連絡をくれたし。いろんな人が募金活動とかやってくれていてありがたいですよ」「KAMINOGE」vol.71から)

また、前田日明も「カッコつけでも売名でもいいから、一人でも多くの人が支援に協力してほしいね」と、高山への支援を表明する。
「今はiPS細胞をはじめとする医療技術がどんどん進歩しているから、新しい治療法が出てくるかもしれない。そういう希望もあるんだから、それまで耐えて頑張ってほしいよね」(「俺たちのプロレス」vol.8から)

高山の師匠である高田延彦は、9月14日にTwitterで以下のようなエールを発信した。
「高山!なにやってんだよ、必ず元気になってまた杯を交わすぞ、安生、田村、桜庭、ヤマケンらみんなでな、あの時みたいに、約束な。」

以下は、高山善廣ブログからの転載です。
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高山善廣選手は、DDT 5/4豊中大会試合中、怪我をし頸髄完全損傷および変形性頚椎症という診断が下り現在、首から下が動かない状況のなか、厳しいリハビリ、怪我と闘っております。そんな高山選手を応援する会「TAKAYAMANIA」を立ち上げます。

今後、各プロレス団体様のご協力のもと、試合会場にて募金箱の設置、応援グッズ販売、チャリティー興行などを行っていきたいと考えております。
皆さまからご協力頂きましたご厚意は高山選手の治療費等に寄付させて頂きます。
ご賛同いただける方は、下記口座に直接募金をお振込いただければ幸いです。

【銀行振込】
三菱東京UFJ銀行 代々木上原支店(店番号)137
口座番号:普通預金 0240842
口座名義:TAKAYAMANIA タカヤマニア
※通帳は高山選手の奥様がお持ちになられています。

みずほ銀行 渋谷中央支店
店番162
口座番号:普通預金1842545
口座名義:TAKAYAMANIA タカヤマニア

三井住友銀行 渋谷支店
店番654
口座番号:普通預金9487127
口座名義:TAKAYAMANIA タカヤマニア 代表 高山奈津子

(寺西ジャジューカ)