NHKの連続テレビ小説「わろてんか」、先週放送分は、芸人たちの引き抜き問題とヒロインの一人息子の恋愛の結末を軸に展開した。
※「わろてんか」全話レビューはこちらから

ドラマで描かれていたように、人気のある俳優や芸人の引き抜き合戦は、戦前から戦中にかけて、映画会社や興行会社のあいだで過熱していた。
「わろてんか」の北村笑店のモチーフである吉本興業でいえば、夫婦漫才で人気絶頂だったミスワカナと玉松一郎(「わろてんか」のミスリリコ・アンドシローのモチーフ)が、1939(昭和14)年に松竹系の新興シネマに引き抜かれている。同時期には、やはり松竹傘下のレビュー団である松竹楽劇団(SGD)にいた笠置シヅ子も、東宝から盛んに誘われたが、恩師の作曲家・服部良一が引き留めたことあり、けっきょく松竹にとどまった。笠置は戦後、服部の作曲した「東京ブギウギ」などを歌い、一時代を築くことになる。
「わろてんか」隼也の悲恋のモチーフか。笠置シヅ子の名曲「東京ブギウギ」は恋人との別れから生まれた
小谷洋介『吉本興業をキラキラにした男 林弘高物語』(竹中功監修、KKロングセラーズ)。長らく東京にあって吉本興業を盛り立てた林弘高の評伝。弘高は、「吉本のドン」と呼ばれた兄・正之助の陰に隠れて、長らくその業績があまり知られていなかったが、近年、『吉本興業百五年史』の編纂の過程で新資料が発掘されたこともあり、再評価されるようになった

「わろてんか」隼也のモチーフとなった二人の人物


さて、この笠置シヅ子は、吉本興業ともある人物を通じて深いつながりがあった。その人物とは、吉本興業の土台を築いた吉本せいの一人息子・穎右(えいすけ)だ。ドラマのヒロイン北村てん(葵わかな)には、隼也(成田凌)という一人息子がいるが、てんのモチーフが吉本せいとするなら、隼也は吉本穎右をモチーフとしていることは間違いない。

ただし、準也にはもう一人、モチーフと思われる人物がいる。
それは吉本せいの18歳下の弟である林弘高だ。弘高(最初の名は勝)は1928(昭和3)年、21歳のときに当時の吉本興行部に入り、東京の営業責任者となる。その後、32年に吉本興業が合名会社に改組すると東京支社長に就任、34年にはアメリカからマーカスショウを招聘し、東京・大阪・名古屋で公演を行なって、大成功を収めた。「わろてんか」では、隼也がアメリカ留学中にマーカスショウならぬ「マーチンショウ」を観て感動し、これを日本で実現すべく奔走していたが、そのエピソードは林弘高の実話を踏まえたものだったのである。

さて、「わろてんか」では、隼也がマーチンショウを実現する過程で加納つばき(水上京香)という女性と出会い、激しい恋に落ちる。しかし、大手銀行の頭取の娘であるつばきは、父親の選んだ人と結婚することになり、隼也との仲を引き裂かれることになる。


隼也の悲恋ともいえるラブストーリーは、先述の吉本穎右の実話をもとにしている。そしてその相手こそ、笠置シヅ子であった。

吉本せいの一人息子、笠置シヅ子と出会う


吉本頴右は1923(大正12)年、吉本吉兵衛(泰三)・せい夫妻の次男として生まれた。出生時には「泰典」と命名されている。せいは吉兵衛とのあいだに二男六女を儲けたが、長男以下5人の子供が次々と夭逝したうえに、穎右の生まれた翌年には夫も亡くしてしまう。それだけに一人息子の泰典を溺愛し、将来は自分の跡を継がせるつもりでいた。

泰典は満20歳を迎えた1943(昭和18)年、それまでも通称として用いてきた「穎右」を戸籍上の本名とした。
早稲田大学に入学するため上京したのもこの年だ。最初の半年間は帝国ホテルから通学していたというから、まさに絵に描いたような“ぼんぼん”である。吉本の東京支社長だった叔父の弘高にはよく面倒を見てもらったという。

そしてまた、穎右が笠置シヅ子と運命の出会いを果たしたのも1943年のことである。砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子──心ズキズキワクワクああしんど』(現代書館)によれば、笠置は、彼と出会ったのは6月28日だったと日付まではっきりと記憶していたという。ちょうど太平洋戦争のさなかであり、彼女は所属していたSGDが開戦前の41年1月に解散してからというもの、地方巡業や戦時増産激励などで工場慰問を行なっていた。

「わろてんか」隼也の悲恋のモチーフか。笠置シヅ子の名曲「東京ブギウギ」は恋人との別れから生まれた
砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』(現代書館)。笠置の生涯を詳細にたどった評伝。吉本せいの告別式に笠置が参列した貴重な写真も見られる

そんな時期、名古屋の太陽館に出演することになり、ちょうど御園座で新国劇の公演中だった旧知の俳優・辰巳柳太郎を楽屋に訪ねたとき、吉本頴右と初めて顔を合わせた。そのときはお互い言葉は交わさなかったが、このあと、笠置が太陽館に出演中、吉本の名古屋主任が彼女の楽屋に来て、笠置の大ファンだという穎右を紹介した。ここで穎右は笠置に名刺を渡して自己紹介すると、明日実家のある大阪に帰ると話した。ちょうど笠置も翌日には名古屋を発って神戸の劇場に移動する予定であり、とっさに「一緒に(汽車に)乗りまひょか」と誘ったのだった。

そして翌日、名古屋駅に着いた笠置は、先に列車に乗っていた穎右を、吉本の支配人に「荷物が多いから」と頼んで呼んでもらう。穎右は笠置の荷物を持って一緒に乗車すると、神戸まで同行し、彼女を見送ってから大阪へ引き返した。


戦時下に燃えた恋、そして突然の別れ


笠置は穎右の9歳上で、当初二人は姉弟的な関係だったのが、たちまち恋に落ちていったようだ。1944年の暮れには結婚を誓うまでになる。翌45年5月の東京への空襲で、笠置と穎右はそれぞれ家を焼け出され、林弘高の家の裏手にあった洋館に年末まで仮住まいする。その洋館はもともと弘高のフランス人の親友の家だったが、戦時中に地方へ引っ越し、そのあとをやはり彼の友人の東宝のプロデューサー杉原貞雄が借りていた。小谷洋介『吉本興業をキラキラにした男 林弘高物語』(竹中功監修、KKロングセラーズ)によれば、笠置は林が杉原から頼まれて預かることになったという。

ともあれ、穎右と笠置にとって、8月15日の終戦を挟んでのこの約半年間が、同じ屋根の下に暮らした唯一の機会となった。このあと46年には穎右は早大を中退し、弘高のもとで吉本の東京支社で本格的に働き始める。
一方、笠置は年が明けると師匠の服部良一宅に身を寄せ、さらに4月から年末にかけては、美容院でたまたま知り合ったファンの家に住まわせてもらった。

この間、穎右は笠置のために、吉本の社員をマネージャーにつけている。山内義富というそのマネージャーは、戦前はコロムビア制作部にいて、笠置のレコードをプロデュースしたこともあった。山内のマネジメント能力は絶大で、笠置は全幅の信頼を寄せるようになる。5月末には穎右と笠置はその山内と箱根へ静養に出かけた。そして10月、笠置は穎右の子供を妊娠したことに気づく。

だが、喜びもつかの間、肺結核という持病を抱えていた穎右(そのため戦時中は徴兵を免除されていた)の病状が悪化し、やがて兵庫県西宮の自宅へ戻って療養に専念することになった。47年1月14日、年明けより山内マネージャーとその妻子ともども暮らし始めていた笠置は、東京駅で穎右を見送ったが、これが彼との永遠の別れとなる。しかしそんなことは夢にも思わず、同月29日には、主演を務める日劇の舞台「ジャズカルメン」の初日を迎えた。彼女は穎右との約束で、この公演を最後に引退するつもりであった。

やがて出産が近づき、入院していた笠置のもとへ、穎右の訃報が伝えられる。5月19日のことだ。24歳での急逝であった。悲しみのどん底に突き落とされながらも、笠置はそれから約2週間後の6月1日、無事に女児を出産する。

吉本せいは息子の恋に猛反対したが……


ところで穎右の母・吉本せいは、一人息子と笠置がつき合うことに猛反対していた。その理由については「踊り子ふぜいと最愛の息子を添わせるわけにはいかないとする気持ちから」とか、「人一倍強い嫉妬心から相手が誰であろうと息子の恋愛を許せなかった」とか、さまざまな説がある(矢野誠一『新版 女興行師 吉本せい──浪花演藝史譚』ちくま文庫)。とはいえ、そんなせいの心も徐々に軟化していったようだ。とくに笠置が妊娠してからは二人の仲は周囲の公認となり、林弘高が姉のせいと笠置のあいだを取り持ちながら、ことは円満な方向へ進んでいたらしい。出産直前には、吉本家から入院中の笠置のもとへ穎右が子供のために遺した3万円の預金通帳が届けられ、出産後には、弘高の兄で吉本興業の総支配人(のち社長)だった林正之助も見舞いに訪れている(『ブギの女王・笠置シヅ子』)。

愛息に先立たれ、打ちのめされたせいもやがてまた病床に就く。笠置がせいと初めて会ったのは、穎右の亡くなった4ヵ月後の47年9月のこと。このとき笠置は生まれたばかりの娘を連れて、入院中だったせいを見舞っている。笠置は翌年の穎右の一周忌にも出席し、彼の墓参りもした。その後もせいは回復しないまま、とうとう1950年3月14日、息子のもとへと旅立ったのである。

このころにはすでに笠置はスターとなっていた。穎右との約束で一旦は引退を決意したものの、彼が亡くなり、一人で子供を生んだ以上、その子のためにも、自分のためにも、悲しみを乗り越えて芸能界に復帰しなければならなかった。「東京ブギウギ」はそんな笠置の再起の場をつくるため、服部良一が贈った曲だ。この曲はまず1947年9月に梅田劇場で披露され(笠置がせいと会ったのはこの公演中)、翌月から日劇で行なわれた公演「踊る漫画祭・浦島再び竜宮へ行く」や12月公開の映画「春の饗宴」で歌われたのち、48年1月にレコードが発売されると全国的なヒットとなった。以後、笠置は「買物ブギー」「ジャングル・ブギ」「ホームラン・ブギ」など服部作曲による一連のブギシリーズをヒットさせ、「ブギの女王」と呼ばれるようになる。

敗戦後の日本人を励ましたといわれる「東京ブギウギ」は、それを歌った笠置自身の悲しみを背負いながら、世に送り出されたのだった。もし、穎右が生きていれば、おそらく笠置は幸せな家庭を築いたことだろう。しかし、そうなっていたら彼女は「ブギの女王」として歴史にその名を残すことはなかったに違いない。その意味でも、吉本穎右との関係は笠置シヅ子にとって運命的であった。
(近藤正高)