連続テレビ小説「半分、青い。」(NHK 総合 月〜土 朝8時〜、BSプレミアム 月〜土 あさ7時30分〜)
第26週「幸せになりたい!」第154回 9月27日(木)放送より
脚本:北川悦吏子 演出:田中健二
「半分、青い。」154話「生まれることがめでたくて死ぬことが哀しいっていうのは乱暴な気さえするんや」
半分、青い。 メモリアルブック (ステラMOOK)

半分、青い。 メモリアルブック

154話はこんな話


祈り虚しくユーコ(清野菜名)は震災で亡くなった。
ショックを受けた鈴愛(永野芽郁)は岐阜に帰省する。


「間違っとるな」


永野芽郁の玉のような涙がいくつも零れた。

ふさぎ込む鈴愛をなんとか励まそうと草太(上村海成)がブッチャー(矢本悠馬)と菜生(奈緒)を呼んだ。
「間違っとるな」とまず言い出すブッチャー。
間違っとるのは、大きなリーゼントだろうか。それとも、ユーコが亡くなるなんてという気持ちか。

ブッチャーは呼ばれた期待に応えようと必死におどけ続ける。ほんと、いつだってこの人はいい人だ。
菜生も。
だが鈴愛の心のなかはユーコを失った悲しみでいっぱい。
片耳の聴力を失ったとき以上だと、半身を失くしたようだと片方の目を手のひらで覆って世界を見る。NHK出版から出ているムック本の第一弾のなかに、永野芽郁と佐藤健が片方の目を覆っている写真(撮影レスリー・キー)があってそれが素敵だったので、それがここで生かされたように思う。または斎藤工の短編映画『半分ノ世界』(レビューで以前ご紹介しました)。

40年待ってた


鈴愛のいない間もそよ風ファンの開発は進む。
海外に部品を発注してなんとかなったものの、部品がデザインを損なうのでさてどうしようとなるも、律(佐藤健)は鈴愛のやりたいようにやらせてあげたいと考える。

彼女が立ち直って、そよ風ファンのことを考えられるまで待つという。

「もう40年、あいつを待ってた」

出たー、決め台詞。
もう何も言えません。

「わたしらは生と死の間に生きている」


終盤に来て、全員、ウィスパーボイスになってきた。

鈴愛、律、そして・・・・
弥一(谷原章介)が。
「悲しみと共に生きている」。

しっかり者のキミカ先生(余貴美子)すらややウィスパー。

「わたしらは生と死の間に生きている」
「生まれることがめでたくて死ぬことが哀しいっていうのは乱暴な気さえするんや」

みんながウィスパーボイスでちょっといい感じの台詞を吐く。

けだし正論。生まれることがめでたいとは限らない。なぜなら、シェイクスピアも「リア王」でこう書いた。
When we are born we cry that we are come 
To this great stage of fools.
人はみな、泣きながら生まれてくる。阿呆ばかりのこの大舞台(世)に生まれることを嘆いて、というような意味である。


抱いていいですか


鈴愛は仙台へユーコに会いに行き、骨壷を抱きしめる。
この時期、まだ新幹線も道路も不通で、仙台に行くのは困難だった。仙台が地元の私の友人は現地に行っても迷惑になるからと5月まで待ったと言う。もっとも友人の家族は無事だったからで、ユーコが亡くなったとあらばどんなことをしても行きたかったのだろう。
完全に現実のお話と同じというわけでもないだろう。半分、フィクション、だろうからこそ原発の話はいっさい出てこない。


震災以降、フィクションにしてもノンフィクションにしても震災をどう描くか、課題のひとつになっている。「あまちゃん」(13年)で宮藤官九郎は朝ドラではじめて東日本大震災を描いた。
坂元裕二は民放の連ドラ「最高の離婚」(13年)や「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」(いつ恋 16年)で震災時や以降を描いた。坂本については以前、「いつ恋」の村瀬健プロデューサーにインタビューしたとき、こんなことを語ってくれたことが印象的に残っている。
“今回、僕が作家・坂元さんにいちばん感動したのは、何を書くかということ以上に、何を書かないかということでした。ドラマで、実際あった出来事を書く時……例えば今回で言えば、震災ですが、それによって亡くなる架空の人物を作ったら絶対にいけないと坂元さんは言ったんですよね。
”(ヤフーニュース個人2016年3月21日公開記事より)

「あまちゃん」も誰も亡くならなかった。現代ものの朝ドラ「まれ」(15年)は阪神淡路大震災と東日本大震災の間の話を描き、災害もなく、登場人物は誰も亡くならなかった。震災から年数が経ってなかったからということもあるかもしれない。「ふたりっ子」(96年)では当初、阪神淡路大震災のことを描こうという企画もあったが見送ったという。

一方、「半分、青い。」はキミカ先生の台詞どおり、「わたしらは生と死の間に生きている」「生まれることがめでたくて死ぬことが哀しいっていうのは乱暴な気さえするんや」とばかりに病死する人、ピンピンころりで逝く人、震災で命を落とす人・・・を描いた。

あらかじめ脚本家が自身の死生観を明かしていたので、この台詞は作家の思いを反映しているのだと思う。
“人は生まれた以上、死に近づくのは普通のことなんですよね。死を忌み嫌うことが差別につながると思います。病気や障害も隠さずにいられる世の中になればいいな、という思いをセリフに込めました。”(朝日新聞 8月31日配信記事より)。

フィクションで死や病を描くことを避ける選択もあっていい。それは忌み嫌っているわけではないと私は思うう。また、あえて描く選択もあっていい。だから北川があえて逃げずに震災とそれによって亡くなる人物を描く選択をすることは彼女の自由だ。大事なのは信念。それをもち続けること。たとえ世界全員が敵にまわっても自分の意志を貫くこと、それだけだ(全員が敵だと言っているわけではありません。味方はたくさんいると思います)。

最終回まであと2回!
(木俣冬)